第8話 仲良し
「……はぁ」
思わず小さくため息が漏れる。
僕は今、カーテンの向こう側——城崎さんの陣地で、借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばして正座していた。
同じひとつの部屋をカーテン一枚で仕切っているだけのはずなのに、雰囲気がまるで違う。
白と淡いピンクを基調としたファブリック、ベッドの上に無造作に置かれた可愛らしいクッション、机の上に綺麗に並べられたメイク道具や香水のボトル。
そして何より、空間全体にふんわりと満ちている、甘い柔軟剤と微かなシトラスの香り。
おまけに、床に無造作に脱ぎ捨てられた制服のプリーツスカートが視界の端に入り、どうにも胸が落ち着かない。
(見ちゃ駄目だ見ちゃ駄目だ……)
心の中で必死に念仏を唱えながらじっと耐えていると、廊下からパタパタと軽やかな足音が近づいてきた。
ガチャリと部屋のドアが開く。
「はぁ〜〜……すっきりしたぁ」
湯気とともにこちらのスペースへ入ってきたのは、お風呂上がりの城崎さんだった。
濡れた金色の毛先を頭の上に巻いたフェイスタオルで押さえながら、ゆったりとした薄手のパジャマを着ている。ほんのり上気した白い肌と、鎖骨のあたりに張り付いた濡れた髪筋が艶めかしい。
城崎さんはベッドの脇で小さく縮こまっている僕を見下ろすと、目を丸くして呆れたように息を吐いた。
「なんで正座して待ってんの?」
「なんでといわれましても……」
痺れかけた足をそっと崩しながら、僕は喉元まで出かかっていた疑問を口にした。
「ど、どうして今日はこっちのベッドで僕まで寝るんでしょうか……?」
「そりゃ……」
城崎さんはタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら、当たり前のように言った。
「毎日あんたのベッドじゃ悪いでしょ?」
「いや……僕は別に」
「あんたに気を使ってんじゃないわよ」
城崎さんは鼻を鳴らすと、手にしたタオルを机の背もたれにポイと放り投げた。
「私のベッドに対して言ってるの。せっかくここにあるのに、毎日向こうにばっかり行ってたら、こっちのベッドが可哀想でしょ」
「さ、さいですか……」
ベッドへの気遣いって何なんだろうか。
城崎さんは両腕を真上に突き上げ、ん〜〜っと気持ちよさそうに背伸びをした。
薄いパジャマの生地が引っ張られ、女子特有の細いウエストと胸元の起伏がくっきりと強調される。
「あー、今日もめっちゃ疲れた」
自分のベッドの縁に腰を下ろした城崎さんは、足をぷらぷらと揺らしながら、ふと思いついたように口を開いた。
「ねえ……私さ、もう学校でも名字、中丸に変えようかなって思ってんだけど」
「……え?」
唐突に飛び出してきた言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「学校でも……って、城崎のまま通すんじゃなかったの?」
「いやさ……」
ひとつ息を吐いて、城崎さんは顔を上げる。
「市役所の書類とか、口座とか保険証とか……正式な名字はもうとっくに『中丸』になってるじゃん? 進路の紙とか模試の申し込みとか、学校の書類関係だけ『城崎』で出すの、いちいち確認されて面倒くさいんだよね。先生たちもたまに呼び間違えるし」
城崎さんは前髪を指先でくるくると弄りながら、淡々と続けた。
「最初はさ、体操服とか新しく買い直すの勿体ないし、クラスの連中に再婚のことあれこれ詮索されて冷やかされるのがウザかったから、元の名字のままにしてたんだけどさ。……まあ、今日電車であの二人にもバレちゃったし」
どうせ友人たちに知られてしまったのだから、今更隠し通す意味も薄いということなのだろう。
「あんたはどう思う?」
突然意見を求められ、僕は少し戸惑った。
「うーん……僕は、どっちでもいいと思うけど」
「何よどっちでもいいって」
途端に城崎さんは不満げに眉をひそめ、唇を尖らせた。
「一応戸籍上は兄なんだからさ……納得感のある意見を出してよ」
「意見って言われてもな……」
困り果てて頭を掻く。
正直なところ、城崎さんが明日から学校で『中丸』と呼ばれる姿は想像がつかない。
違和感が凄いだろう。
それに……。
ふと問題に思い当たった。
「……」
「何よ?」
「もし学校でも城崎さんが中丸になったらさ。僕たち、なんて呼べばいいんだろう?」
僕の疑問に、城崎さんはきょとんと目を丸くした。
「そりゃ、あんたのことは変わらず……中丸呼び?」
「ええ……? それじゃ、城崎さんが自分の名字を呼ぶことになるけど」
「うーん」
城崎さんはぽんと手を打った。どうやらそこまで考えていなかったらしい。
「じゃあ……『お兄ちゃん』って呼べばいいわけ?」
悪戯っぽく口角を上げ、少し首をかしげて甘ったるい声を作ってくる城崎さん。
その破壊力たるや凄まじく、僕の胸がドキンと大きく跳ねた。
「そ、それは……案外、いいかも……」
「変態」
ボフッ。
勢いよく投げつけられた羽毛枕が、僕の顔面にクリーンヒットした。
「ぐふっ」
鼻を押さえながら、恨めしく目で抗議する僕を、城崎さんは笑っている。
「私のことは『茉莉花様』でいいよ」
周囲のクラスメートからどんな目で見られるか分かったものじゃない。
「ふぁぁ……」
城崎さんは僕のぼやきを聞き流しながら、小さくあくびを零した。
濡れたまつ毛をパチパチと瞬かせ、眠そうに目を細めている。
「ちょっと早いけど……もうベッド行こうかな」
城崎さんはベッドの上にごろんと横たわると、掛け布団をめくり、空いたシーツのスペースをぽんぽんと手で叩いて促してきた。
「早く来なさいよ」
立ち上がり、おずおずと彼女のベッドへ這い上がる。
城崎さんは、僕のマットレスを高級だ何だと言っていたが、どう考えてもこちらの方が質が良い。身体がふんわりと沈み込むような柔らかさだ。
シーツに顔を近づけると、城崎さんの匂いが鼻先を満たして、それだけでクラクラとしてくる。
僕が隣に横たわった瞬間、城崎さんは待ってましたとばかりに身体を寄せてきた。
滑り込むように僕の右腕を抱え込み、胸元へと頭をすっぽりと潜り込ませてくる。
「ん……」
薄いパジャマ越しに伝わってくる、女子特有の柔らかな温もりと、お風呂上がりの熱気。
迷いのない密着ぶりに、僕の心拍数は早々にアップテンポへと舞い上がる。
「あのさ……城崎さん」
「なに?」
「……アイマスクは? しなくていいの?」
僕の胸元に顔をうずめたまま、城崎さんは微かに身じろぎした。
「ん〜……別に、いい」
「……いいの?」
「もう眠いし……いい」
くぐもった声で、ぽつりと呟く城崎さん。
ありがたいような、むしろ大変なような。
アイマスクなしということは、至近距離でお互いの顔を晒したまま寝るということなので。
逃げ場がなくなるとも言える。
そんなことを考えていると、城崎さんが小さく呟いた。
「……昨日さ」
「ん?」
「キスしたわよね」
「————ッッ!?!?」
あれは事故というか、不可抗力というか、城崎さんは寝ぼけていて気づいていないものだとばかり思っていたのに。
「き、気づいてたの……!?」
裏返りそうな声で問いかけると、城崎さんはゆっくりと僕の胸元から顔を上げた。
至近距離で、琥珀色の大きな瞳が僕の目をまっすぐに射抜いてくる。
「……」
「あ、いや、あれは僕が悪かったというか、わざとじゃなくて……!」
「……私、あれが初めてだったんだけど」
は、初めて……?
「う、嘘でしょ……?」
「嘘ついてどうすんのよ」
城崎さんは眉をひそめ、少し拗ねたように唇を尖らせた。
どう弁明すればいいのか分からない。ごめんと謝るべきなのか、それとも僕も初めてだったと張り合うべきか。
混乱する僕を、城崎さんはじっと見つめていた。
やがて、彼女の口元にふわりと妖しげな笑みが浮かんだ。
「……ねえ」
「な、なに……?」
「……また、したい?」
「……っ!?」
冗談なのか、それともからかわれているのか。
ま、まぁ……からかわれているに決まっているのだが。こんな真剣な瞳で言われたら、騙されてもいいかなって思ってしまいそうで。
「ほら、目瞑って」
明らかに様子がおかしい城崎さんの命令を、黙って従うことにした。
ゴクリと唾を飲み込み、言われるがままにぎゅっと瞼を閉じる。
「……口」
耳元で囁かれ、心臓の音が耳の奥で鳴り響く。
僕は恐る恐る、口先を小さくすぼめた。
昨夜、わずかに触れ合ったあの唇の、湿っぽくて柔らかな感触。あれを思い出すだけで、下腹の奥が熱くなり、たまらない気持ちが込み上げてくる。
城崎さんの吐息が、すぐそこまで近づいてくる気配がした。甘い香りが濃密に鼻腔をくすぐる。
来る。
全身の筋肉を硬直させ、息を止めてその瞬間を待った。
——カシャリ。
乾いた電子音が、静まり返った部屋に響き渡った。
「…………え?」
恐る恐る目を開ける。
目の前にあったのは、城崎さんの唇ではなく、こちらに向けられたスマートフォンのカメラレンズだった。
「ぷぷっ……ナイスキス顔」
城崎さんはベッドの上でスマホを構えたまま、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「ちょ……ちょっとおおおおおおおおっ!?」
画面を覗き込むと、そこには口をタコのようにすぼめ、眉間にシワを寄せて必死の形相でキスを待つ僕の顔がバッチリと写し出されている。
「これ、今日の電車で私の秘密バラそうとしたお返し」
城崎さんはけらけらと笑いながら、スマホの画面を僕に見せびらかしてきた。
「け、消してよ!」
「やーだ」
「頼むから消してくれ! こんなの誰かに見られたら……」
「大丈夫だってば。誰にも見せないから。そもそも見られた所で落ちるほどの評判がないでしょ」
「そんなことないよ!」
僕はなりふり構わず、スマホを奪い取ろうと城崎さんに飛びかかった。
しかし彼女は身軽に身体をよじり、長い腕を伸ばしてスマホを背中側へ隠す。
ベッドの上でもみくちゃになりながら、僕は必死で手を伸ばした。シーツが激しく乱れ、枕が跳ね飛ばされる。
「ほら、取れるもんなら取ってみなさいよ」
「くっそ……!」
僕が彼女の身体に覆いかぶさるような体勢になり、腕を伸ばしたその瞬間。
スマホを遠ざけていた城崎さんの、もう片方の手が……。
するりと僕の首の後ろへ回り込み、後頭部を力強く引き寄せた。
「!?」
視界が、一瞬で金髪と琥珀色の瞳で埋め尽くされた。
ん、と微かな吐息とともに、柔らかな感触が真正面から僕の唇を塞いだ。
「————っ!?」
昨夜のような、触れ合うだけのかすかな接触ではない。
しっかりと、深く、逃げ場を塞ぐように押し当てられた唇。
城崎さんの滑らかな唇の弾力と、口元から漏れる温かな熱が、口元へと流れ込んでくる。
後頭部を押さえる彼女の細い指先に、ぎゅっと力が入っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ちゅ、と小さく湿った水音を残して、ゆっくりと唇が離された。
「……っ」
城崎さんは微かに肩を揺らし、息を弾ませていた。
僕の首の後ろからそっと手を離すと、手にしたスマホをベッド脇に放り出した。
「……これで、いいでしょ」
どこか拗ねたような声。
城崎さんはそれだけ言い残すと、逃げるように僕の胸元へと勢いよく頭をうずめてしまった。
「…………」
唇に残る、痺れるような熱さと柔らかい感触。
一体、どういうつもりなのか彼女の気持ちが分からない。
(僕のこと好きなのだろうか……)
だが、これまでのことを振り返ると、やはり惚れられる覚えはない。
ずっと学校では邪険にされていたのだ。たかが抱き枕代わりになった程度で好感度が跳ね上がるとは思えない。
それでも、とりあえず。
「ふぅ……」
ゆっくりと息を吐き出し、胸元にすがりついてくる彼女の華奢な背中に、そっと両腕を回した。
壊れ物に触れるように、優しく、抱きしめ返す。
すると、僕の胸元に埋もれていた城崎さんが、ゆっくりと顔を上げた。
仄暗い間接照明の光の中。
間近で見つめ合う彼女の顔は、お風呂上がりの熱気とは違う、鮮やかな朱色に染まっていた。
琥珀色の瞳は潤み、濡れたように微かに揺れている。
普段の教室で見せる落ち着いた面影はない。
城崎さんは何かを言いたそうに唇を小さく震わせ、けれど言葉にはならず、ただじっと僕の瞳を見つめ返してくる。
(……)
城崎さんが何を考えているのか。これから僕たちの関係はどうなるのかは分からない。
でも、そんなことは一旦横に置いておこうと思う。
今はもう、我慢ができない。
僕は吸い寄せられるように、そっと彼女の濡れた唇へと、自分の顔を落とした。




