第1話 オタクの日常
昼休みの教室は、どこを切り取っても騒がしい。
僕の机の前に椅子を置き、どっかりと腰掛けた橋本智也が、身振りを交えながら熱弁を振るっていた。
「——というわけでですな、中丸氏! やはり今期アニメの真の覇権は、あの深夜アニメの金髪ギャルヒロイン『麗華様』で決まりですぞ! オタクの部屋に上がり込んできて『キモオタくん、あたしにもそのゲームやらせてよ』などと無邪気に微笑むあの姿……あれぞ人類が到達した究極の理想郷! 拙者、昨晩は画面の前で五体投地しましたぞ!」
「僕はあんまり響かなかったな……。顔は可愛いけど、いかにも都合が良いヒロインって感じで」
「中丸氏、貴殿は何も分かっておられない!」
斎藤は鼻息荒く反論してくる。
ちなみに、中丸裕太が僕の本名だ。
「都合が良いからこそ至高なのでしょうが! 現実の教室を見渡してごらんなさい、我々のようなオタクは息をしているだけで『キモい』と一瞥される過酷なディストピアですぞ!? 現実がこれほどまでに世知辛いというのに、二次元の世界でまで現実を突きつけられて誰が得をするというのですか! フィクションくらい、オタクにとって都合の良い聖母に癒やされたってバチは当たらぬはずですぞ! それに……」
ふくよかな腹を揺らしながら唾を飛ばす橋本に、僕は適当に相槌を打つ。
橋本がスマートフォンを取り出し、ヒロインのスクショを自慢げに見せびらかしてくる合間、僕はふと、斜め前方の窓際へと視線を泳がせた。
そこに、城崎茉莉花がいる。
造形だけ見れば、今しがた話していたアニメのヒロインに見劣りしない美少女。
クラスのヒエラルキーの頂点に君臨する、いわゆる一軍女子グループの中心だ。
窓から差し込む昼の光を受けて、さらさらと揺れる明るい金髪のロングヘア。小顔に整った目鼻立ちと、耳元で控えめに揺れる小さなシルバーピアス。制服の着崩し方もどこか洗練されていて、細身ながら出るところはしっかり出ている抜群のスタイルは、同性からの視線すら集めていた。
今どきの白ギャル。住む世界が違う、という言葉がこれほど似合う人間もそういない。
同じクラスになって半年が経つが、プリントを配る時以外に言葉を交わしたことなんて数えるほどしかなかった。
卒業してしまえば、それ以降一生関わることもなく、記憶の隅に「そういえば高校のときにいたな」と双方思い出すだけのクラスメート。そう説明すれば僕たちの距離感は分かるだろう。
近くて、遠い。
綺麗な人だと思うし、正直にいえば彼女の容姿は僕のどストライクである。
叶うのであれば仲良くなりたいとは思う。けれど、それはあまりに非現実的な妄想だ。
……なんてことを、ぼんやりと考えすぎていた。
無意識に見つめ続けていた視線の圧に気づいたのだろう。
友達と談笑していた城崎さんが、ふっと顔をこちらへ向けた。
目が合った瞬間、彼女はハッとしたように目を見張り——次の瞬間には、あからさまに不快感を露わにして眉根を寄せた。
「チッ」
耳に届くほどの、明確な舌打ち。
冷え切った、ゴミを見るような視線が僕を貫く。
「あー、茉莉花また睨んでるー。何見てんの?」
その反応に真っ先に気づいたのは、取り巻きの早瀬玲奈。
明るい茶髪を高い位置でポニーテールにした彼女が、僕たちの席を指さして甲高く笑う。
黒髪ボブの雨宮美雨も、口元に手を当ててやれやれと肩をすくめた。
「オタクくんじゃん。なになに?」
「ちょっと、うちらで抜かないでよ?」
ドッと周囲の男女から下品な笑いが起きる。
教室のあちこちから、冷ややかな視線と失笑が僕と橋本に向かって注がれる。いつものことといえばいつものことだが、居心地の悪さは一級品だ。
当の城崎さんはといえば、それ以上僕たちに関わる気すらないとばかりに、ツンと顎をそらして窓の外へ視線を戻していた。
「……中丸氏も懲りないですな」
嵐が去ったあと、橋本が机に肘をつき、小声で呆れたように言った。
「ギャルがオタクに優しいのは、深夜アニメかラノベの中だけですぞ。我々オタクが愛の視線を送っても帰ってくるのは罵声のみ。諦めましょう。その代わり、『都合が良すぎる』なんて毛嫌いせずに麗華様を……」
「いや……別にそんなつもりで見つめてたわけじゃないんだけどさ」
「まあ、美人に憧れるだけならタダですが。しかし拙者から言わせてもらえば、このクラスにおける真の至宝は——」
橋本はぎょろりとした目を輝かせ、二列ほど前に座る女子生徒へと熱い視線を向けた。
「あの清楚可憐にして凛とした佇まい、委員長殿こそが至高!」
「ひっ!?」
斜め前でノートを整理していた委員長が、殺気めいた視線に気づいて小さく悲鳴を上げた。次の瞬間、ガタガタッと机と椅子ごと露骨に横へ引きずって距離を取り、怯えた目でこちらを振り返る。
それを見て、橋本は「ふふ、照れ屋さんですな」とだらしなく頭を掻きながらニヤニヤしていた。
(……僕たちがオタクと一括りにされて蔑まれる原因の八割くらいは、間違いなく橋本のせいだと思う)
無造作に伸びた天然パーマ、流行に全力で逆行するセンスの欠片もない銀縁の丸眼鏡、そしてだらしなく肥えた腹回り。
百歩譲って外見は許容するとしても。この独特の口調と思考回路、そして今のような奇行。こればかりはどんな擁護を並べても言い逃れできない。
とはいえ、話してみれば気配りのできるいい奴だし、趣味の知識は豊富で退屈しない。だからこそこうして友人関係が続いているわけだが——頼むから橋本、女子に本気で気味悪がられてニヤけるのだけはやめてくれ。僕は心の中で深くため息を吐いた。
放課後。一人でとぼとぼと夕暮れの通学路を歩いていると、前方に城崎さんの姿が見えた。
向こうもこちらに気づいたようだが、キッと眉間を潜めて、足早に去っていった。
(どうせ帰る方向は同じなんだけどな……)
そんなことを考えながら、僕はふと、一ヶ月前のことを思い出していた。
『裕太、会わせたい人がいるんだ』
男手一人で僕を育ててくれている父から突然そう告げられた。再婚を考えている女性がいて、しかも相手には僕の妹になる娘がいるのだ、と。
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の中に湧き上がった昂ぶりは、言葉では言い尽くせないものがあった。
——実は僕には、生き別れ……と言ったら大袈裟かもしれないが、かつては妹がいたのだ。
過去形なのは妹が亡くなったわけではない。両親が離婚した際、母に連れて行かれたのだ。
物心ついた頃には父と男二人の生活だったため、妹の顔も名前も記憶にはない。
そして離婚後も両親の仲は冷え切ったままで、僕たち兄妹は一度も会う機会は得られず、連絡を取ったことすらなかった。
その生い立ちのせいだろうか。アニメでも漫画でも、ドラマでも、「妹」という響きには人一倍強く引き寄せられてしまう自分がいた。
どこかの街で、僕と同じ血を分けて生きているはずの妹。
もしも一緒に暮らしていたら……そんな妄想を、誰もいない静まり返った放課後の家で、一人っ子の僕は何度も思い描いていた。
だから、期待したのだろう。できるかもしれない妹に。
父に連れて行かれたのは駅前にある小洒落たレストラン。
身構えながらも、胸を高鳴らせて案内された個室のテーブルに座っていたのは少し派手だが穏やかで品のある美人——僕の義母となる千鶴さんだった。
そして、その隣に座っていたのが……。
『……っ』
よそ行きの清楚なワンピースを着て、澄まし顔をしていた同級生——城崎茉莉花だったのだ。
父の再婚相手は、クラスメイトのギャルの母親だった。
ドラマか漫画のような急展開に、僕の脳内はパンク寸前となる。
『もっと前もっていうべきだろう』とか『どうして同級生の母と?』とか。色々と疑問と憤りはあったが。それでも、この場で僕が異論を挟めるわけもなく。
父が幸せそうに照れているのを見て「おめでとう、良かったね」とぎこちなく祝福した。
城崎さんも、内心どう思っていたかは別として、一切のトゲを消し去り大人しく頷いていた。
そして無事顔合わせが終わり、レストランの出口でのこと。
父と千鶴さんが会計のためにレジへ向かい、僕と彼女が二人きりで取り残された、ほんの数十秒の間。
隣に立っていた彼女が、僕の方を一切見ないまま、低く鋭い声を落としてきた。
『誰かに言ったら殺す』
それが、義妹から贈られた最初の言葉だった。
こうして父の言葉通り、城崎さんは僕の妹となった。誕生日を照らし合わせると僕の方が一ヶ月早く生まれていたのだ。
千鶴さんは『お兄ちゃんができたねぇ、茉莉花』と嬉しそうに微笑んでいたが、一ヶ月違いの血の繋がらない兄など不気味な存在でしか無いだろう。
案の定、城崎さんが僕を「お兄ちゃん」と呼ぶことはなく、期待した兄妹関係が構築されることもなかった。
便宜上、城崎さんは学校で名字を変えることはなかったので、クラスメートには僕たちの関係は知られていない。
だから当然僕らの間には会話はなく、時折視線が合えば舌打ちが飛んでくる程度の間柄のままである。




