大切なものを守るために
離宮の夜が明け、冷たい朝の光が差し込む。
レビリアは疲れ果てたのか、リオを抱きしめてまだ静かに眠っていた。
セピアはそっと彼女とリオの髪を撫で、布団を直してやると、部屋の隅に立つエルヴィンとポアロへと歩み寄った。
表情は柔らかいが、その瞳の奥には、かつての「頭脳明晰な王子」の鋭さが戻っていた。
「……兄上、ポアロ。実は――僕は、記憶を取り戻しました」
低い声で告げられた一言に、二人の目が大きく見開かれる。
「なんだと……! 本当か、セピア?」
驚きと喜びの入り混じった声をあげたのはエルヴィンだった。
「はい。昨夜、夢の中で……母様のことも、崖のことも、リオの真実も。全部、思い出しました」
セピアの声は震えていなかった。ただ確かな決意がこもっていた。
ポアロは胸に手を当てて深く頭を下げる。
「殿下……。それは何よりの朗報にございます。しかし――なぜ私たちに?」
「僕一人では、この戦いには勝てません。ガゼル兄上も、王妃も、決して甘くはない。だから信頼できる二人と協力したいんです」
エルヴィンはゆっくりとうなずき、弟の肩を力強く掴んだ。
「よくぞ言った、セピア。お前はもう“守られるだけの存在”じゃないな」
ポアロも眼鏡を押し上げながら言う。
「ただし、殿下。記憶を取り戻したことは決して軽々しく口にしてはなりません。油断させるために“阿呆のフリ”を続けるのが肝要です」
「わかっています」
セピアは真剣にうなずいた。そして一瞬、眠るレビリアへと視線を向ける。
「……レビリアには、まだ言わないでください」
「なぜだ?」とエルヴィンが問う。
「彼女には……僕の口から、ちゃんと伝えたいんです。全部が終わった時に。彼女を騙すみたいで心苦しいけど……それまでは、どうか二人も協力してください」
エルヴィンとポアロは一瞬視線を交わし、同時に頷いた。
「承知しました」
「必ず秘密は守りましょう」
その瞬間、セピアの胸に決意の炎がさらに強く燃え上がった。
――ガゼル兄上、そして王妃。
今度こそ、僕が全てを守り抜いてみせる。
***
窓の外はまだ夜の余韻が残り、蝋燭の火だけが慎ましく揺れている。机の上には王妃の動きに関する地図や断片的な調査メモ、秘密の通路図が散らばっていた。そこに座るのは、エルヴィン、ポアロ、そしてセピア――だが、レビリアの姿はどこにもない。今回の話は、彼女には知られてはならない極秘事項だったのだ。
「まず基本方針だが、証拠の先取りが最優先だ」
エルヴィンが低く切り出す。彼の指が地図上の一点をじっと示す。
「王妃が地下牢や通信経路を使っている確かな痕跡は掴めつつある。だが、肝は“王妃が実際に手を下す瞬間”を押さえることだ。それが出来れば王妃側の言い逃れは効かない」
ポアロは穏やかだが険しい顔で頷く。
「地下の図面の写し、王妃が使う印章の類、財務の不審な流れ――これらを物的に抑える。記録は確実に二重三重に保管します。王妃が動いたその瞬間に証拠を提示できるよう、私が宮内の動線を固めます」
セピアは黙って二人のやり取りを見つめていた。胸の奥はざわつく。彼が提案したいことはわかっている。レビリアを囮に使う案、そして自分が囮になる案……だが、いま彼女に知られてはならない。彼女を危険に晒すわけにはいかない、と二人は既に判断しているのだ。
静かな沈黙の後、セピアは低く言った。
「僕は……レビリアを囮にするという案には賛成しません。彼女を危険に晒すくらいなら、僕を――」
しかしエルヴィンは遮った。
「セピア、それは駄目だ。お前が囮になるなど論外だ。王妃が本気を出したとき、王家の血筋を狙うことになる。お前に何かあれば国が動揺する——それを我々は絶対に許せない」
ポアロも静かだが断固として答える。
「殿下が一人で背負うべきものではございません。殿下の命は、王家の安定に直結します。殿下が危険に晒されるような作戦は、私の務めとしても許容できません」
セピアは拳を握りしめる。胸の中は嵐だ。だが、理は彼らの言う通りである。感情だけでは物事は動かせない。彼は深く息を吐いた。
「分かった。僕の気持ちは変わらないが、今は計画を遂行するために協力する。証拠を先に押さえて、公開で王妃を追い詰める。その方が安全だし、確実だ」
エルヴィンは微かに笑みを含ませ、セピアの肩に手を置いた。
「よし、それで行こう。だが約束してくれ。レビリアには絶対に内緒にすることだ。彼女を守る、それが最優先だ」
ポアロも静かに頷く。
「我々は秘密を守ります。そして殿下、あなたも演じ続けてください。阿呆のフリは重要な武器になります。内部から油断させるのです」
作戦の輪郭が固まるにつれ、三人の顔に決意の色が濃くなる。エルヴィンは情報網を駆使して王妃の密会場所を割り出し、ポアロは宮内の通路と録音・記録具の配置を綿密に設計する。セピアは外面だけはこれまで通りに振る舞い、内側ではいつでも動ける態勢を整える。すべては慎重に、秘密裡に進められる。
会議がひと区切りつくと、三人は立ち上がった。外で夜明けの光が差し込み始める。だがセピアの胸は穏やかではない。彼は寝静まる離宮の寝室へと戻り、眠るレビリアと、腕に抱かれたリオを見やった。
(君にはまだ言えない…。ごめん…。でもちゃんと時が来たら僕が自分の口で、ちゃんと伝えたい。全部が終わったその時に——)
そう決意を新たにし、セピアはレビリアの髪をそっと撫でる。嘘をつくことの重みが心を締め付けるが、守るための嘘だと自分に言い聞かせる。三人の密やかな連帯は、王妃に対する最後の反撃の火種となるのだ。




