潜入捜査
静寂と冷気が張りつめる夜。王宮の灯火が遠くに揺れる中、二人は影のように動いた。
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月光が細く差す回廊の片隅、石壁に沿って立つ銀髪の青年は身を低くし、周囲の気配を探るのはエルヴィン。普段は世間の目に出ない彼だが、今宵は情報を刈り取る先鋒だ。隣で静かに手元の道具を弄るのは、王家に長く仕える執事・ポアロ。ポアロの小さな懐からは、幾つかの魔導小具が光を帯びている。
「ここで合図を出したら、あの扉を潜る」
エルヴィンが低く囁く。地図で示された場所の前には、王妃が密かに使うとされる控え室がある。表向きは古い書庫だが、裏には密談が行われるという。ポアロは頷き、小さな音も立てずに金具を整えた。
「鍵は二重です。表の鍵は容易いが、内側の施錠は古い機構の応用で……私が一つ解除します」
ポアロの声は抑えられているが、指先には冷静さが宿る。彼は王宮の古文書や設備を熟知している。
二人は壁に付けられた古い柄穴に幽かに息を吹きかけ、影のごとく扉へ回り込む。鉄の扉はかすかな軋みを上げるが外套の陰でそれを殺し、エルヴィンがぽそりと札を差し込んだ。内側からの施錠機構――確かに古めかしいが、ポアロの指先は慣れた手つきで歯車を撫で、微かなクリック音が闇に混じる。
「行きます」
合図とともに、二人は密室の奥へ滑り込んだ。
室内は暗く、ただろうそくの消えかけた炎が何かの陰を揺らしている。埃の匂い、古い紙の匂い、そして――嗅ぎ慣れたはずの王妃の香が残る。重い机の上には書類の束、巻物、そしてひとつの封蝋のついた箱。そこにこそ答えがあると、エルヴィンは確信していた。
「音声記録はまずここだ」
ポアロは小さな鏡のような魔導具を取り出し、机の下に差し込む。それは遠隔で音を拾い、微弱魔力で外部へ送る小型装置だ。ポアロの目は厳しい。
エルヴィンは静かに歩み寄り、机の封筒に手をかける。指先は震えていない。封蝋には王妃の紋章に似た刻印。中を開けば、ただの公文書か、あるいは……。
封を切り、取り出した羊皮紙に筆跡を追う。筆跡は端的で冷たい―王妃の直筆ではないかもしれないが、命じた痕跡がくっきりと残っている。そこには王妃がある人物に対して命じた「処理」の依頼、地下牢の使用指示、そして“今後の処置”に関する具体的な財務の流れが書かれている。宛先にはガゼルの名。
エルヴィンの唇が固く結ばれる。文字が意味するところは――計画的な隠蔽と、王妃とガゼルの結託。胸を掠める怒りを抑え、彼は冷静に別の書類を掻き分ける。財務帳簿、送金記録、身辺雑事の記録。確かな痕跡が次々と出てきた。
「これは……」ポアロの低い声。彼の指先が一通の短い書簡を指す。そこには、王妃の名で出されたように見える覚書。「ある者を黙らせるための費用」「必要ならば第三者に手を回すこと」——まさに犯罪を裏付ける言葉が並ぶ。
「確保します。これらはすべて写しを取って、魔導記録具に保存します」
ポアロは淡々と言い、薄い透明の結晶板を取り出した。触れると羊皮紙の文字が光を帯びて板に転写される。これは極めて便利な道具だが、扱いを誤れば魔力の反動で使用者に影響を及ぼしかねない。ポアロの手つきは慎重そのものだ。
だが、部屋の空気が一瞬にして変わる。遠くで扉の軋む音。誰かが近づいている。エルヴィンは小さく振り向き、窓の外へ視線を走らせた。夜風に乗って、遠い廊下で二重の足音が跳ねる。二人の潜入は既に知られているのかもしれない。あるいは王妃側の見張りが予期せぬ早期戻りをしたのだろうか。緊張が鋭く刃となって二人を締め上げる。
「記録を取って撤退します」
ポアロが言う。彼の魔導具は淡く光り、羊皮紙の文字を次々に転写していく。エルヴィンは机の引き出しを一つずつ確認し、そこにしまわれていた小さな箱を見つける。中には、古い録音カセットのようなものが詰まっていたが、魔導の刻印が施されている。ポアロがそれを受け取り、装置に接続すると、微かな音声が再生された。
「——セピアを、崖から落とせ。場所は先刻の通り。手筈は整えた。表にはまず金を動かす。示談は用意する」
男の冷たい声。続けて、低い女性の声が――重なるように笑う。言葉の端には確かな確信がある。エルヴィンの背筋が凍る。再生されている音声は、まさしく王妃の側近が交わした会話。そこには、崖の“事故”の算段、地下牢の利用、そして責任の擦り付け方まで含まれていた。
「これでいい。これで決定的だ」ポアロの目が光る。だが、そのとき――背後の扉を軽く叩く音がした。足音ではなく、忍ぶような気配。二人は暗闇で息を潜めた。
扉がゆっくりと開く。灯りを持った影が一つ、部屋に入ろうとする。影は机の方へ目をやり、ちらりと魔導具の光を見た。
「来るぞ」エルヴィンが囁いた。彼はすぐさま窓際へと回り、影の進行方向を断ち切るように動いた。ポアロは装置を握りしめ、外へ出せるだけのデータを一気に転送する。だが相手も一枚上手──重い木の扉の外へ目配せの合図が出される。複数の影が廊下に迫る音が、ゴトゴトと響き始めた。
「時間だ」ポアロが低く言う。二人は秘密の小窓から外へ抜けるルートをとり、闇に紛れて退路を確保する。だが退路へ向かう途中、一人の影が彼らの側へ飛び込んだ。刃の先が光る。瞬間、エルヴィンはその影を弾くように掴み、床へ押し倒す。彼の動きは冷静かつ迅速だ。
「走れ、ポアロ!」
だがポアロは振り返り、「無理です、殿下。こちらを」と言いかけ、己の腰に隠していた小型玉を床に置いた。それは煙幕玉。まるで夜の霧のように白い煙が立ち込め、追手の視界を遮る。煙に紛れ、二人は石の渡り廊下を駆け抜けた。
廊下を曲がり、王宮の壁を伝って外へ出ると、冷たい夜風が二人の顔を切った。背後で扉が閉まり、叫び声が薄く聞こえる。ポアロは胸に抱えた記録具を確かめ、エルヴィンは肩で息をする。二人の胸には、確実な手応えがあった。音声、書簡、送金記録、秘密の印章――必要なものは揃った。
「これで、王妃の足元を固められる」エルヴィンは静かに言った。
ポアロは頷き、暗がりで小さく笑った。
「証拠は三重に分けて保管します。これを神聖評議会に提出するべき時が来れば、逃げ道はありません」
二人は夜の影に紛れて離宮へ戻った。胸には緊張と、しかし確かな勝利感が広がっている。これで囮作戦の時が来た――あとは慎重に、そして確実に、王妃をその所業の現行犯で捕えるだけだ。
だが、二人が知らぬところで、王妃は静かに杯を掲げて笑い、次の一手を思案していた。




