『魔王様はお怒りです』
魔王軍の評判は、すこぶる悪かった。
人間の国々では、魔王軍は世界を滅ぼそうとする邪悪な軍勢として恐れられている。魔王は残虐非道。配下の魔族は人間を見れば襲いかかり、世界征服が成ればすべての国が滅ぼされる。
酒場の吟遊詩人はそんな歌をうたい、街角の新聞は魔王軍の脅威を大々的に報じる。子どもたちは魔族を恐ろしい怪物として教えられ、勇者が魔王を討ち倒す日を待ち望んでいた。
もちろん、魔王軍にも言い分はある。
世界征服を目指しているのは事実だ。武力をもって各国を従わせ、最終的には魔王の統治のもとに世界を一つにまとめる。それが魔王軍の掲げる目標だった。
しかし魔王は、世界を滅ぼしたいわけではない。
人間と魔族が争い、国と国が領土を奪い合い、種族間の憎しみが新たな戦争を生む。そんな終わりのない争いを終わらせるために、魔王は世界征服を目指しているのだ。国がひとつになれば、国境をめぐる戦争はなくなる。異なる種族が同じ法の元で暮らせば、種族間の争いも減る。
魔王軍に籍を置く者なら、誰もがそう聞かされている。
ただし、その理想を実現する手段が各国を武力行使も辞さないのだから、人間たちが恐れるのも無理はない。魔王軍の支配下に入った国が、それまでの自由を保てる保証などないのだ。
そして魔王の理想は、魔王軍の外には殆ど伝わっていなかった。
その事実に今、誰よりも腹を立てている人物がここにいる。
魔王城、謁見の間。
黒々とした禍々しい気配が、部屋の隅々まで渦を巻いている。玉座の背後では光を呑み込むような影が幾重にも重なり、壁に刻まれた異形の文字が脈打つように明滅していた。床に落ちた影は、灯りの向きに逆らって蠢く。息を吸う度、喉の奥に冷たい指を差し込まれるようで、壁際に並ぶ兵士は浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
そんな中、玉座に座すのは魔族たちが魔王様と呼ぶ存在だった。
漆黒の角。深紅の瞳。
そこにあるのはただただ禍々しく、絶対的な存在感だった。見る者の本能を怯えさせ、心の奥底から抗う意志を奪い去る。人の理解も、理屈も、勇気さえも通用しない。まるでこの世のあらゆる悪意と恐怖を凝縮したかのような、圧倒的な威容だった。
魔王様が、ゆっくりと顔を上げた。
それだけで、列のあちこちから息を呑む気配が伝わってくる。見てはいけないものを見てしまったような感覚。目を逸らしたいのに、視線を動かすことさえ許されない圧迫感。
そこにいるのは、ただ強大な力を持つ王ではない。世界の理からわずかに外れた、何か別のもの。
「なぜだ!」
怒声が、謁見の間を震わせた。
「なぜ余が、世界を滅ぼすなどと思われているのだ!」
床に新聞が叩きつけられ、ばさりと乾いた音を立てる。
紙面は、遠目にも読み取れた。勇者の凛々しい肖像画。その上に躍る大きな見出し。
『勇者、魔王討伐へ! 世界を救う希望、ついに決戦の地へ』
記事の隅には、魔王様の似顔絵まで添えられている。
なぜか角は実物の三倍ほど大きく、口元には鋭い牙がずらりと並んでいた。背景には燃え盛る街。足元では人々が悲鳴を上げて逃げ惑っている。
「余はこんな顔ではない!」
「そこですか、魔王様」
玉座を見上げる男が、欠伸を噛み殺しながら答えた。
セシル・ヴァルディス。魔王軍の軍務統括官である。各部隊の編成から作戦の承認まで軍事行動の一切を取り仕切る立場にあり、その仕事量は膨大で放っておけばいくらでも増えていく。
そしてセシルは増え続ける仕事をいかに減らすかについて、並々ならぬ情熱を注いでいる。城内ではそう噂されていた。
この空気の中で欠伸を噛み殺せる者は魔王城広しといえど、恐らく彼くらいのものだ。
「見出しも気に入らん! 余は世界を救おうとしているのだぞ!」
「はいはい。立派な理想ですねえ」
「セシル!」
「いやあ、困りましたねえ」
セシルは床に落ちた新聞を拾い上げ、興味があるのかないのか分からない顔で眺めた。
「でも、魔王様。人間の国からすれば、うちの軍隊が国境を越えて攻め込んできているわけですし」
「それは世界を一つにまとめるためだ!」
「向こうからすれば、国を奪われるわけですし」
「だからこそ、余が統治して争いをなくすのだ!」
「その説明、向こうに伝わってます?」
「……伝わっていないから怒っているのだ!」
魔王様が肘掛けを叩いた。
衝撃が床を伝い、壁際にまで届く。並んだ魔族たちが、一斉に身を強張らせた。
「まあ、広報活動とか、そういうのが必要なんじゃないですかねえ」
「広報活動?」
「うちが何をしたいのか、外に向けて説明する仕事ですよ。宣伝とか、情報発信とか」
魔王様は押し黙った。
無理もなかった。魔王軍が力を注いできたのは、いつも軍そのものだった。各国の軍事力を分析し、作戦を練り、戦力を増強し、勇者への対策を進める。だが自分たちが何者で何を目指しているのかを外に向けて語る部署は、この軍のどこにも存在しなかった。
魔王軍の公式発表といえば戦果の報告か、敵対勢力への警告くらいのものだ。それでは魔王軍が何を考えているのかなど、外の者に伝わるはずもない。
長い沈黙のあと、魔王様が口を開いた。
「よし。広報部を作れ」
「はい?」
「魔王軍の広報部だ。余の理想を世界に知らしめよ!」
「……あぁ、はい。そういう感じですねえ」
セシルは、ひとまず頷いた。
「セシル、何とかしろ!」
「承知しました、魔王様」
返事だけは早かった。
だが魔王様は満足げに頷きかけて、すぐに眉を顰める。




