第5章 第168話 帰る場所と、進む道
道場を出たあと、アイリスは王都の坂道を迷わず上っていった。
低い石垣、黒い屋根、軒先に吊るされた木札。前世の日本を思わせる景色は相変わらず不思議だったが、今はそれより、隣を歩くアイリスの方が気になる。
足取りはしっかりしている。
ただ、いつもより口数が少ない。
「……怒ってるわけじゃないよね?」
フィーナが小声で尋ねる。
「誰がでござるか?」
「アイリスのお家の人」
「さて。会ってみなければ分からぬでござる」
答えながらも、アイリスの尻尾はいつもより動きが少なかった。
やがて、彼女は一軒の屋敷の前で立ち止まった。
派手ではない。けれど門も庭もよく手入れされていて、長く住み継がれている家だと分かる。
「ここが、拙者の家でござる」
門をくぐる前に、アイリスは一度だけ姿勢を正した。
玄関へ上がると、彼女は腰の刀を外し、決まった位置へ置く。
その動きには迷いがなかった。
旅の宿では見たことのない所作だった。
ここでは、身体が昔の習慣を覚えているらしい。
「ただいま戻りました」
奥から竜人族の女性が出てきた。
アイリスを見る。
一瞬、何も言わなかった。
「アイリス」
「母上」
女性の視線が顔、肩、腕、足元へ動く。
「怪我は?」
「今はありませぬ」
「今は、という言い方が気になりますね」
「……旅をしていれば多少は」
「あとで聞きます」
柔らかい声なのに、逃げ道がない。
セレスが小さく笑った。
「少し分かる気がします」
「セレス殿まで……」
さらに奥から、大柄な竜人族の男が現れた。
「戻ったか」
「はい、父上」
「剣は続けているな」
「無論でござる」
「ならいい」
短い。
だが、拒絶しているようには見えなかった。
父親の視線が俺たちへ向く。
「そちらが仲間か」
「はい。《アカシックレコード》の皆でござる」
一人ずつ挨拶すると、父親は最後に俺を見る。
「ユウトだな」
「はい」
「名前は聞いている」
魔物や高位魔導師を相手にする時とは違う種類の緊張があった。
「アイリスからですか?」
「娘から届いた便りは少ない」
アイリスが僅かに目を逸らす。
「冒険者ギルドの記録と噂の方が詳しい」
「……申し訳ござらぬ」
「謝る前に、今後は書け」
「承知いたした」
即答だった。
母親が俺たちを客間へ案内してくれる。
低い卓の周囲へ座り、茶が運ばれてきた。
アイリスは器を受け取る前に軽く一礼し、置く位置まで自然に揃える。
いつもの彼女より動きが硬いわけではない。
むしろ逆だ。
この家で身についた型へ戻っているのだ。
「珍しいですか?」
母親に聞かれ、俺は卓を見た。
「少し懐かしくて」
「懐かしい?」
「俺の生まれた場所にも、似た文化があったので」
父親が僅かに視線を上げたが、それ以上は聞かなかった。
茶を一口飲んだあと、父親がアイリスへ向く。
「このまま旅を続けるつもりか」
「はい」
答えは早かった。
「まだ戻って腰を落ち着ける気はない、と」
「ございませぬ」
「理由は?」
アイリスは少し考えた。
「旅に出る前の拙者は、強ければ多くを守れると思っておりました」
父親は何も言わない。
「ですが、護衛対象のそばに怪我人がいれば、敵を斬るより前に壁になるべき時がございました。剣を抜けば早く終わる場面でも、抜かぬ方がよい時もありました」
アイリスは俺たちを見る。
「拙者にできぬことを、仲間へ任せるべき時も」
「それで剣を捨てたか」
「まさか」
アイリスは少し笑った。
「むしろ、何のために振るうかを考えるようになったでござる」
父親は長く黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「そうか」
それだけだった。
アイリスが少しだけ眉を寄せる。
「それだけでござるか?」
「何を言ってほしい」
「いえ……」
母親がため息をついた。
「この人は昔からこうです」
「必要なことは聞いた」
父親は茶を置く。
「なら、行けばいい」
アイリスの目が僅かに見開かれた。
「止めぬのでござるか」
「止めて戻るなら、そもそも出していない」
静かな言葉だった。
「ただし、死ぬな。それと便りを出せ」
「承知いたした」
「今度こそ本当に出せ」
「……承知いたした」
母親がそこで口を挟んだ。
「それと、今夜は泊まっていきなさい。昔好きだった料理を作ります」
「母上、皆もおりますゆえ――」
「六人分作れば済むことでしょう」
「フィーナ、お肉があると嬉しい!」
「フィーナ殿!」
母親が初めてはっきり笑った。
「では、それも用意しましょう」
屋敷の空気が少し柔らかくなった。
夕食までの間、俺たちは庭へ出た。
夕暮れの風が涼しい。
アイリスはしばらく黙って屋敷を振り返っていた。
「来てよかった?」
俺が聞く。
「はい」
今度は迷わない。
「ここは拙者の帰る場所でござる」
アイリスは庭の先、王都の外へ続く空を見る。
「されど、今の拙者が進む道は、ここで終わっておりませぬ」
「うん」
「皆と歩けば、まだ見たことのない剣も、戦い方も、守り方も知ることができるでしょう」
「俺も一緒に?」
何気なく聞いたつもりだった。
アイリスがこちらを見る。
「……当然でござろう」
答えたあと、ほんの一瞬だけ視線が庭へ逃げた。
「ユウト殿がおらねば、困ることも多いゆえ」
「そっか」
「な、何でござるか、その返事は」
「いや、嬉しいなと思って」
「……そういうことを平然と言うのは、どうかと思うでござる」
刀を持っていた時より、柄へ触れる指が落ち着かなく動いている。
俺はそれ以上追及しなかった。
翌朝。
朝食を終えた頃、屋敷へ王城からの使者が訪れた。
「《アカシックレコード》の皆様へ、王城よりお招きがございます」
差し出された書状には、建国王に関する記録調査への協力依頼が記されていた。
使者は、さらに声を落とす。
「建国王が遺した記録の中に、国外の者へは原則公開されない文書がございます」
俺は書状へ視線を落とした。
「どうして俺たちに?」
「それは、実物をご覧いただいた方が早いかと」
王都の奥にそびえる城。
そこに、俺がこの国で感じ続けてきた奇妙な懐かしさの答えが眠っているのかもしれなかった。
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