後編
電車は人で溢れかえっていた。
他人の体温が、シャツ越しに滲んでくる。
化粧品とアルコールの臭いが、
湿った車内に漂っていた。
彼女の最寄り駅で降りる。
だけど、彼女と呼ぶには何かが足りなかった。
約束はしていない。
でも、会える気がした。
紗菜にメッセージを送った。
駅前のコンビニで煙草に火をつける。
深く吸い、深く吐いた。
返事は煙草を吸い終わるまでに来た。
『コンビニにあん蜜ってあるかな…?』
打ちながら、目元が大きく下がった。
紗菜は、こういう細かいことを覚えている。
「あん蜜食べたいよね」
この前テレビを見ながら、
何の気なしに言っただけなのに。
─結果。
コンビニにあん蜜はなかった。
仕方なく羊羹を二つ買った。
こしあんと栗。
紗菜は栗を選ぶ気がした。
少し嬉しそうに怒る顔が浮かんだ。
二リットルの水に袋が悲鳴を上げた。
コンビニの袋を揺らしながら、空を見上げる。
昼間はあんなに暑いのに、
夜の空は涼しげに光っていた。
※
一週間前。
紗菜の家のソファは少しスプリングが弱い。
深く沈むソファに体を預け、スマホを触る。
グルメサイトの画面を見せる。
「この店気になってるんだよね」
「どれ?」
スマホを覗き込み、肩が重なる。
コンディショナーの香りが髪から広がる。
「えー、量多すぎるよ。無理無理」
「紗菜、沢山食べるでしょ」
「何それ、デブってこと?」
「違うよ!」
「でも、ご飯を美味しそうに食べるとこ好きだよ」
「あ、そう」
膨れながら笑った。
紗菜は笑う時、少し遅れて肩が揺れる。
その癖が好きだった。
心に何かが引っかかる感覚。
誤魔化すようにテレビに視線を向ける。
テレビでは恋愛ドラマをやっていた。
ちょうど、プロポーズのシーンだった。
「うわ、ベタだなー」
紗菜を見ながら一緒に笑う。
そのまま、何となく言った。
口走ったというより、溢れた。
「俺さ…」
視線はテレビのまま。
息を深く吸い込む。
吐く息を言葉に乗せる。
「結婚したい人がいるんだよね」
一瞬だけ、テレビの音が消える。
紗菜は、何も言わなかった。
ゆっくり缶チューハイを口に運んで、
それから小さく笑った。
「そっか」
テレビの1点だけを見つめて動かない。
「そっか、そっか」
─長い沈黙。
その後に続く言葉の用意が、その時なかった。
※
階段を上ると、青色の玄関が視界に入る。
少し呼吸が早くなる。
インターフォンを鳴らし、銀色に光るドアノブを握る。
冷えた鉄が、指先の温度を奪う。
「少し痩せた?」
「寝れてないだけ、今週疲れた」
「そんな時にごめん、帰ろうか?」
少しだけ、逃げようとした。
「いや、いいから入りなよ」
迷いをかき消すように、促された。
「トイレ借りるよ」
少しだけ、時間が欲しかった。
「あっ…私先に入る」
「なんでよ」
「漏れそうだから」
1人になれればそれで良かった。
トイレから音が漏れる。
紗菜らしい。
「お待たせ」
「待ったよ、漏れるかと思った」
「うっさい」
白い扉に視線を向ける。
丸いドアノブを、一度回し損ねた。
また違う芳香剤の香りがした。
便座に腰をかける。
そのまま崩れそうだった。
両手を握り、額にあてた。
祈るみたいに。
「ちょっと!なんで羊羹なの!」
「流石にあん蜜売ってなかったんだよ」
「えー、楽しみにしてたのに」
ドアの方を見ながら、小さく笑った。
こんなくだらないやり取りなのに。
それだけで十分だった。
「今度は必ず買ってくるから」
そこからはタイミングだけ探した。
ソファの沈み。
テレビの雑音。
スマホの写真。
たった一個だけ、きっかけが欲しかった。
「っていうかさ」
「ここ、来てていいの?」
「なんで?」
紗菜がくれた。
「だから、いるんでしょ?」
ポケットに手を入れる。
起毛の感触が指に沈んだ。
四角い箱を握る。
「いるよ」
─とても歪な夢の始まり。




