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後編

電車は人で溢れかえっていた。

他人の体温が、シャツ越しに滲んでくる。

化粧品とアルコールの臭いが、

湿った車内に漂っていた。


彼女の最寄り駅で降りる。

だけど、彼女と呼ぶには何かが足りなかった。


約束はしていない。

でも、会える気がした。


紗菜にメッセージを送った。

駅前のコンビニで煙草に火をつける。

深く吸い、深く吐いた。

 

返事は煙草を吸い終わるまでに来た。

『コンビニにあん蜜ってあるかな…?』

打ちながら、目元が大きく下がった。

 

紗菜は、こういう細かいことを覚えている。

「あん蜜食べたいよね」

この前テレビを見ながら、

何の気なしに言っただけなのに。


─結果。

コンビニにあん蜜はなかった。

仕方なく羊羹を二つ買った。

こしあんと栗。

紗菜は栗を選ぶ気がした。

少し嬉しそうに怒る顔が浮かんだ。

二リットルの水に袋が悲鳴を上げた。


コンビニの袋を揺らしながら、空を見上げる。

昼間はあんなに暑いのに、

夜の空は涼しげに光っていた。

 


一週間前。


紗菜の家のソファは少しスプリングが弱い。

深く沈むソファに体を預け、スマホを触る。

グルメサイトの画面を見せる。

「この店気になってるんだよね」

「どれ?」

スマホを覗き込み、肩が重なる。

コンディショナーの香りが髪から広がる。

「えー、量多すぎるよ。無理無理」

「紗菜、沢山食べるでしょ」

「何それ、デブってこと?」

「違うよ!」

「でも、ご飯を美味しそうに食べるとこ好きだよ」

「あ、そう」

膨れながら笑った。

 

紗菜は笑う時、少し遅れて肩が揺れる。

その癖が好きだった。


心に何かが引っかかる感覚。

誤魔化すようにテレビに視線を向ける。

 

テレビでは恋愛ドラマをやっていた。

ちょうど、プロポーズのシーンだった。

「うわ、ベタだなー」

紗菜を見ながら一緒に笑う。


そのまま、何となく言った。

口走ったというより、溢れた。

 

「俺さ…」

視線はテレビのまま。

息を深く吸い込む。

吐く息を言葉に乗せる。

「結婚したい人がいるんだよね」


一瞬だけ、テレビの音が消える。

紗菜は、何も言わなかった。


ゆっくり缶チューハイを口に運んで、

それから小さく笑った。

「そっか」

テレビの1点だけを見つめて動かない。

「そっか、そっか」


─長い沈黙。

 

その後に続く言葉の用意が、その時なかった。


 

階段を上ると、青色の玄関が視界に入る。

少し呼吸が早くなる。

インターフォンを鳴らし、銀色に光るドアノブを握る。

冷えた鉄が、指先の温度を奪う。

「少し痩せた?」

「寝れてないだけ、今週疲れた」

「そんな時にごめん、帰ろうか?」

少しだけ、逃げようとした。

「いや、いいから入りなよ」

迷いをかき消すように、促された。


「トイレ借りるよ」

少しだけ、時間が欲しかった。

「あっ…私先に入る」

「なんでよ」

「漏れそうだから」

1人になれればそれで良かった。


トイレから音が漏れる。

紗菜らしい。

「お待たせ」

「待ったよ、漏れるかと思った」

「うっさい」

 

白い扉に視線を向ける。

丸いドアノブを、一度回し損ねた。

 

また違う芳香剤の香りがした。


便座に腰をかける。

そのまま崩れそうだった。


両手を握り、額にあてた。

祈るみたいに。


「ちょっと!なんで羊羹なの!」

「流石にあん蜜売ってなかったんだよ」

「えー、楽しみにしてたのに」

ドアの方を見ながら、小さく笑った。

こんなくだらないやり取りなのに。

それだけで十分だった。

「今度は必ず買ってくるから」


そこからはタイミングだけ探した。

ソファの沈み。

テレビの雑音。

スマホの写真。


たった一個だけ、きっかけが欲しかった。

 

「っていうかさ」

「ここ、来てていいの?」

「なんで?」

紗菜がくれた。

「だから、いるんでしょ?」

ポケットに手を入れる。

起毛の感触が指に沈んだ。

四角い箱を握る。

「いるよ」

─とても歪な夢の始まり。

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