第31話:番外編 結婚式という名の、生涯最大の黒字決算。――陛下、この幸福、どの勘定科目(かんじょうかもく)に計上いたしましょう?
経済大戦は終わり、神々の裏帳簿も精算済み。
けれど、わたくしにはまだ、生涯で最も難解な「監査案件」が残されておりました。
――それは、自分自身の「幸福」という、計算不能な資産の計上方法ですわ。
「――却下ですわ、陛下」
皇宮の私的なサロン。
わたくしは、差し出された一枚の羊皮紙を、指先で静かに突き返しました。
「わたくしたちの結婚式に、帝国歳入の三年分。……正気の沙汰とは思えません」
「足りぬか」
「増やせという話ではございませんっ」
思わず、扇の陰で声が跳ねる。
数多の国を沈め、神を破産させてきたこのわたくしが、たった一枚の「予算案」を前に、頭を抱えているのですから、世も末ですわ。
カエルス陛下は、悪びれもせず、ソファの背にゆったりと身を預けました。
死神と恐れられた面差しには、もう隈ひとつありません。夜ごと安らかに眠っている、その証ですわ。
「貴公は、世界一贅沢な式にすると言ったはずだが」
「ええ、申しましたわ。……ですが、それは『黒字で』と申し上げましたでしょう?」
わたくしは新しい帳簿を広げ、錆びた鉄のペン――ではなく、陛下からいただいた黄金の万年筆を手に取りました。
「よろしいですか。式典とは、投資ですの。参列した貴族どもの『畏敬』という名の含み益、諸外国への『帝国は健在なり』という信用の担保。……それらを回収して初めて、宴は『資産』になりますのよ。ただ散財するだけの式など、ドブに金貨を捨てる『不良債権』ですわ」
「……フ。相変わらず、愛の誓いすら損益計算書に載せる女だな」
「当然ですわ。愛を数えられなくて、何が会計魔女ですの」
言ってから、わたくしは、ほんの少しだけ言葉に詰まりました。
――そう。
数えられるはずでした。
この世のあらゆる価値を、貸し借りのロジックに翻訳してきたのですから。
なのに。
「……陛下」
「なんだ」
「一点だけ、どうしても『計上』できない科目がございますの」
わたくしは、招待客の名簿に視線を落としました。
そこには、皮肉な列席者の名も並んでおります。
没落したアストレア王国からは、元・第一王子ジュリアン。
かつて「数を数えるだけの無能」とわたくしを蔑んだ男は、いまや帝国への債務返済のため、下働きとして式の給仕に立つことが「決定済み」ですわ。祝いの品を贈る金すら持たぬ彼にできる、精一杯の「現物返済」ですのよ。
……ふふ。良い余韻ですこと。
けれど、わたくしの筆が止まっているのは、そんな痛快な回収の頁ではございません。
「陛下が、わたくしに支払ってくださるもの。……帝国の全資産、あなたの心臓、魂、そして生涯の二十四時間」
わたくしは、顔を上げました。
「これほど巨大な資産を預かって、わたくしは一体、どの科目に、いくらで計上すればよいのです。……対価が、幸福が、あまりに大きすぎて――帳簿が、閉じられませんのよ」
声が、微かに震えました。
数字で世界を支配してきた女が、幸福の「桁」を数えきれず、途方に暮れている。
こんな無様な監査官の姿、大公あたりが見れば、さぞ溜飲を下げたことでしょう。
カエルス陛下は、ゆっくりと立ち上がり、わたくしの隣に腰を下ろしました。
そして、震えるわたくしの手を、その大きな手で包み込みます。
「ヴィクトリア。……一つ、経営者として助言をしよう」
「……助言、ですか」
「計上できぬ資産は、無理に数えなくていい」
耳元で、低く、甘く。
「幸福というのはな。……貸方にも借方にも載らぬ。ただ、二人の署名の隣に、静かに『継続』と書いておけばいい。……それだけで、帳簿は永久に黒字だ」
……っ。
わたくしの演算回路が、また『エラー』を吐きました。
ずるい方。
わたくしの得意な言葉で、わたくしを、こうも簡単に降参させるなんて。
「……ふふ。……減点ですわ、陛下」
わたくしは、潤みかけた目元を、そっと扇で隠しました。
「経営判断としては満点ですけれど。……妻を口説く手管としては、あまりに『割安』ですのよ。……こんな殺し文句、金貨一枚の価値もございませんわ」
「では、いくらだ」
「――お代は、あなたの生涯で、分割払いにしていただきますわ。……一秒の余剰も、他人には渡さず」
わたくしは万年筆を握り直し、結婚式の予算案の余白に、新しい一行を書き加えました。
『幸福:計上不能。よって、生涯にわたり継続計上とする』。
それは、わたくしの帳簿史上、初めての――そして、最も誇らしい「例外処理」でした。
「さあ、陛下。……予算会議を再開いたしますわ。式は三日後。神様が腰を抜かすほど贅沢で、そして帝国史に残る『黒字』の宴に仕立て上げて差し上げます」
「ああ。……望むところだ、私の愛しい執行官」
窓の外では、再建の進む帝都ノワールに、新通貨アストレアの灯りが誠実に瞬いておりました。
精算は、とうに終わっている。
けれど、二人の帳簿は――これから先も、永遠に。
……ふふ。
黒字の頁は、まだ一頁目ですわ。
「幸福:計上不能。よって、生涯にわたり継続計上とする」
……ふふ。世界を買い叩いたヴィクトリア様が、唯一「値段」をつけられなかった資産。
それこそが、カエルス陛下の愛でございます。
本編完結後、初めての「番外編」は、二人の結婚式の予算会議――という名の、甘い攻防をお届けいたしました。
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またどこかの帳簿で、皆様とお会いできますように。




