第12話 決算期のデスマーチと七色の夜食
三月。全社を挙げての超繁忙期、いわゆる「決算期」がやってきた。
営業部は目標達成に向けた最後の追い込みで殺気立ち、他部署も連日の徹夜作業に追われている。社内の空気はどんよりと重く、全員の顔から生気が失われていく過酷な一ヶ月の始まりだ。
そんな地獄のような期間に突入した、日曜日の昼下がり。
俺は、ペット可である自宅アパートのリビングで、フローリングの上をトコトコと歩く「茶色い毛玉」を見つめて、だらしなく頬を緩ませていた。
「よしよし、ムギ。こっちにおいで」
俺が手を叩くと、生後二ヶ月の豆柴の仔犬が、短い尻尾をちぎれんばかりに振って駆け寄ってきた。
名前は「ムギ」。実家の定食屋繋がりで懇意にしているブリーダーから、昨日ついに譲り受けた念願の新しい家族だ。
一人暮らしの激務の中で、手のかかる仔犬を飼うのは無謀だと言われる。当然、俺もそれは理解している。だから決算期のこの一ヶ月間は、日中から俺が帰宅する夜遅くまで、実家の母親にアパートへ来てもらい、ムギのつきっきりの世話を頼み込んである。
スマホと連動する見守りカメラや温度管理システムも完備した。親に多大な借りを作ってしまったが、何よりこの殺伐とした日常に「絶対的な癒やし」が必要だったのだ。
俺の大きな掌にすり寄ってくる、温かくて柔らかい感触。香ばしい麦の匂いがする小さな頭を撫でていると、会社での理不尽な無茶振りも、深夜のコンビニで同僚たちの秘密を一人で抱え込んでいるプレッシャーも、すべてがどうでもよくなるほどの幸福感に包まれる。
(明日から地獄の決算期だが……俺にはムギがいる。この子のためなら、どんな激務でも乗り切ってみせる)
俺はムギのふかふかの背中を撫でながら、静かに、そして力強く決意を固めたのだった。
★★★★★★★★★★★
――それから一ヶ月間。決算期の凄まじい業務量により、俺の深夜のオアシス訪問は、連日連夜に及んだ。
だが、俺の心はムギの癒やし効果で驚くほど穏やかだった。いつものオフ姿に着替え、深夜のコンビニへ足を運ぶたび、俺は限界を迎えた同僚たちを次々と救済していくことになった。
ある雨の日の、深夜2時。
イートインスペースの別々のテーブルに、見慣れたエンジ色のジャージ姿と、大きめのスウェット姿が、机に突っ伏して動かなくなっていた。
直属の上司である李雪課長と、企画部の山下恭子だ。二人とも互いの正体に気づく気力すらないようだ。
「……師匠」
「あ、悪魔のお兄さん……」
俺の姿を認めるなり、二人はフラフラと顔を上げ、すがるような目でこちらを見てきた。
「私……もう胃が限界なんです。でも、何か食べないと明日戦えない……」
「私もですぅ……カロリーは摂りたいけど、重いものを消化する体力が残ってなくて……」
完全に満身創痍の状態で弱音を吐いている二人に対し、俺は優しく微笑みかけた。
「わかりました。疲労困憊の胃袋に染み渡る、極上のリカバリー夜食を作りましょう」
俺は『冷凍の焼きおにぎり』『鶏ガラスープの素』『チューブのおろし生姜』、そして『サラダチキン』と『とろけるチーズ』を購入した。
まずは李課長用だ。電子レンジで焼きおにぎりを熱々に温め、深めの紙カップに入れる。そこへ鶏ガラスープの素とほんの少しの生姜を落とし、熱湯を注ぎ込んだ。
「『焦がし醤油の生姜鶏ガラ茶漬け』です。生姜が内臓から体を温め、焼きおにぎりの炭水化物が優しくエネルギーに変わります」
彼女は両手でカップを包み込むように持ち、ズズッと一口すすった。途端に、切れ長の瞳からふわりと険が取れ、花が咲いたような至福の笑顔がこぼれた。
続いて恭子用。耐熱カップにほぐしたサラダチキンを敷き詰め、上からスライスチーズを乗せて加熱するだけだ。
「『チキンとチーズの即席プロテイングリル』です。炭水化物を抜いてタンパク質と脂質に振り切ることで、胃もたれを防ぎつつ、しっかりとした満足感を得られます」
「んんっ……! チーズがとろとろで、チキンがしっとり……はぁ、これなら罪悪感ゼロで満たされますぅ……♡」
二人の女性が同時にとろけたような顔をしているのを確認し、俺は静かな満足感を胸にコンビニを後にした。
★★★★★★★★★★★
また別の、週末の深夜。
この日は入れ替わり立ち替わり、三人の同僚が来店した。
一人目は、フラフラと足を引きずりながらやってきた後輩の石井ミチル。
「アニキ! もうダメっす、今日は上司に詰められすぎて、理性が飛びそうっす!」
二人目は、真っ赤に泣き腫らした目で現れた広報の前田奈緒美。
「お兄さん……私、今日も手配ミスしちゃって……もう肉の塊で脳を殴られたい気分ですぅ……」
三人目は、ダボダボのウインドブレーカーに身を包んだ人事部のカルメン・ベガだ。
「……私の共犯者。昼間の健康診断データまとめで、私のオーガニックな魂が枯渇したわ。今すぐ人工着色料の海に溺れたいのよ……」
極限のストレスを抱えた三者三様の要望に応えるべく、俺は一気にカゴへ食材を放り込んだ。
ミチル用には『大盛りナポリタン』と『ポテトサラダ』『温泉卵』。
奈緒美用には『厚切りの豚角煮』と『千切りキャベツ』『マヨネーズ』。
カルメン用には『毒々しい蛍光ブルーの炭酸飲料』と『バニラアイス』『パチパチ弾けるキャンディ』だ。
俺は目にも留まらぬ手際で錬成を開始した。
ミチルのナポリタンの上にポテトサラダを丸ごと乗せ、温泉卵を崩して絡めた。ケチャップの酸味をポテサラのマヨネーズが中和し、卵のコクがすべてをまとめ上げた。
奈緒美には、温めた豚角煮の脂の海に千切りキャベツを敷き詰め、マヨネーズを親の仇のように大量に絞り出した。
そしてカルメンには、氷を入れたカップに蛍光ブルーの炭酸を注ぎ、バニラアイスを浮かべ、最後にパチパチキャンディをふりかけた。
「『背徳のポテタマ・ナポリタン』、『豚角煮マヨのキャベツ溺れ』、そして『ケミカル・クリームソーダ爆発風』です」
三人の前にそれぞれの劇薬とも言える夜食を置く。
「うっま! ナポリタンにポテサラのイモ感が絡んで、炭水化物の暴力っすね!」
「お肉の脂とマヨネーズを、キャベツが全部受け止めてくれて……最強のガッツリですぅ!」
「……最高よ。このパチパチ弾ける人工的な刺激と、体に悪そうな青色……私の細胞が歓喜の悲鳴を上げてるわ!」
三人は無我夢中でそれぞれのジャンクに食らいつき、瞬く間に平らげていった。
決算期の重圧で擦り切れていた彼女たちの表情に、確かな生気と活力が戻っていく。俺は心の中で小さくガッツポーズを決めた。
★★★★★★★★★★★
そして、決算期最後の山場を越えた月末の金曜日。
疲労の極致にありながらも、どこか清々しい足取りでコンビニへ向かった俺は、アイスケースの前で虚ろな目をしている二人を発見した。
ヨレヨレのバンドTシャツを着た長谷川真琴と、着ぐるみフリース姿のフェルナンダが、まるで亡霊のように力なくうなだれていた。
「……ぽやぁ……錬金術師。頭が、ショートしたの……。冷たくて、うるさい音が……欲しい……」
「……専属シェフ。アタシのパッションが、完全に鎮火しちゃったワ……。熱くて、痛くて、でも美味しいもので……魂に火をつけて……」
俺は無言で頷き、最後の錬成に取り掛かった。
真琴用には『プレーンヨーグルト』と『冷凍のミックスベリー』、そして『コーンフレーク』。
フェルナンダ用には『タコス風味のコーンスナック』と『とろけるチーズ』、そして彼女のマイバッグから取り出させた『激辛ペッパーソース』だ。
ヨーグルトの中に冷凍ベリーをゴロゴロと沈め、その上からコーンフレークをたっぷりと敷き詰めた。
もう一方では、タコス風スナックにチーズを乗せてレンジで加熱し、熱々のドロドロになったところへ、激辛ペッパーソースを三滴だけ的確に落として素早く混ぜ合わせた。
「『氷果実のザクザク・ヨーグルトボウル』と、『灼熱のチーズ・メキシカンタコス風』です」
真琴はスプーンでヨーグルトをすくい、口に入れた瞬間、ハッと目を見開いた。
「……っ。冷たいフルーツのシャリシャリ感と、コーンフレークの圧倒的なザクザク感……。ノイズのない、完璧な多重音声……脳が、再起動する……」
フェルナンダもまた、熱々のチーズが絡んだスナックを口に放り込み、息を呑んで硬直した。
「……オー・マイ・ゴッド。チーズの海の中から、強烈なスパイスとペッパーソースの痛覚が突き抜けてくるワ。……熱い。アタシの魂の奥底で、間違いなく火柱が上がったワ……!」
二人は放心したような表情でそれぞれの夜食を堪能し、深い、深い満足の溜息をついた。
これで、俺の会社に潜む七人の同僚たち全員の胃袋を、決算期という極限状態の中で完全に満たしてやったことになる。
「ありがとうございました。……あの、アタシたち、来週からも頑張れるワ」
「……うん。錬金術師のおかげで、また美しいデザインが作れそう……」
彼女たちの素直な感謝の言葉を背に受けながら、俺は「またいつでもどうぞ」とだけ言い残し、夜の闇へと歩き出した。
★★★★★★★★★★★
深夜3時。
静まり返ったアパートの自室のドアを開けると、「キュゥ」という可愛らしい鳴き声と共に、茶色い毛玉が小走りで駆け寄ってきた。
「ただいま、ムギ。母さんが帰った後、一人で寂しかったか?」
俺は床に座り込み、ムギの温かい体を抱きしめた。
ムギが俺の手をペロペロと舐めるたびに、一ヶ月に及ぶすさまじい激務と、深夜のコンビニで七人のポンコツたちを相手にした疲労が、スッと浄化されていくのを感じる。
(ふぅ……なんとか、一番過酷な時期を乗り切ったな)
会社の女性社員たちの秘密を一人で抱え込み、彼女たちの無茶振りに応えながら、深夜の胃袋まで完全に掌握してしまった俺。
昼間は最底辺の営業マンとしてこき使われ、夜は神様のように崇められるという、この極端で奇妙な二重生活。彼女たちが俺の正体に気づく日が来たら、一体どうなってしまうのか。考えただけでも背筋が凍る思いだが、今はとにかく、この甘えん坊で温かい仔犬のぬくもりだけを感じていたかった。
「お前だけだよ、俺の心を無条件で癒やしてくれるのは」
俺はムギの頭を撫でながら、来週から始まる新たなプロジェクトの予感に、静かに目を閉じるのだった。




