第11話 情熱のプレゼンと、冷たいご褒美
木曜日の夕方。
週末を目前に控えた営業部のフロアは、少しずつリラックスした空気が漂い始めていた。だが、俺のデスク周りだけは、まるで熱帯のスコールが降り注ぐような異様な熱気に包まれていた。
「オー・マイ・ゴッド! イチロー、これじゃ全然ダメよ! 明日の役員プレゼンの資料、文字ばかりで役員たちの魂が1ミリも燃焼しないワ!」
バンッ! とデスクを力強く叩き、俺の目の前に赤ペンで真っ赤に修正された資料を突き出してきたのは、グローバルマーケティング部のフェルナンダ・ディアスだ。
燃えるような赤毛を振り乱し、ボディラインを強調した鮮やかなスーツ姿の彼女は、今日も社内の誰よりも声が大きく、そして自己主張が激しい。
「いや、フェルナンダ……これは役員向けの収支報告を兼ねたプレゼンだ。数字の根拠をしっかり見せないと……」
「ロジックなんて後からついてくるモノよ! 大事なのはパッション! この新規プロジェクトに懸ける私たちの熱量を、視覚と直感で叩き込むの! いいこと? 明日の朝までに、全ページを最高にセクシーで情熱的なデザインに組み直してちょうだい!」
「明日の朝って……俺、今日はもう帰ってゆっくり……」
「ノーパッション、ノーライフ! あなたなら徹夜してでも完璧に仕上げられるって、アタシ信じてるワヨ♡」
彼女はバチンと情熱的なウインクを飛ばし、嵐のように去っていった。
残された俺は、真っ赤に染まった企画書を前に、深く、深く息を吐き出した。
深夜のコンビニで出会うポンコツな女性たちが、全員うちの会社の人間であると確信して数日。彼女たちの裏の顔を知っているというプレッシャーで気疲れがピークに達しているというのに、今夜は徹夜確定のデスマーチである。俺の不遇な会社員生活は、底なし沼のように続いていた。
★★★★★★★★★★★
翌日、金曜日の午後。
徹夜で仕上げた「情熱的かつロジカルな」プレゼン資料は、役員たちの心を完璧に掴み、新規プロジェクトは見事に承認された。
プレゼン本番で圧倒的なカリスマ性とパッションを発揮し、役員から絶賛されたフェルナンダは、「最高の気分よ!」と社内で歓喜の声を上げていた。一方、裏方として徹夜で資料を作り上げ、会議室の隅でPCを操作していた俺は、誰にも褒められることなく、ボロ雑巾のように疲労困憊していた。
そして金曜の夜。21時。
ようやく自宅のアパートに帰還した俺は、ネクタイを外し、ベッドに倒れ込みたい衝動を必死に堪えてキッチンの前に立った。
徹夜明けの鉛のように重い体。だが、ここで適当なコンビニ弁当で済ませてしまえば、疲労は絶対に抜けきらない。今の俺の細胞が求めているのは、疲れた内臓を優しく温め、同時にスパイスの香りで脳を覚醒させてくれるような、エキゾチックな癒やしだった。
「よし……今夜は『フォー』にしよう」
俺は袖を捲り上げ、調理を開始した。
まずはスープのベース作りだ。小鍋に少量の油を熱し、八角、シナモンスティック、クローブ、コリアンダーシードを入れて弱火でじっくりと乾煎りする。スパイスの甘くエキゾチックな香りがキッチンに立ち上り、それだけで少し呼吸が深くなる気がした。
香りが立ったところで、水と鶏ガラスープの素、薄切りにした生姜と玉ねぎを加え、ナンプラーと少量の塩で味を調える。そこに、休日にまとめて茹でて冷凍保存しておいた鶏むね肉の薄切りを解凍して浸し、スープに肉の旨味を馴染ませていく。
別の鍋で、米粉から作られた平打ち麺をサッと茹でる。
湯切りした麺を大きなどんぶりに盛り、熱々のスパイス香る鶏ガラスープをたっぷりと注ぎ入れた。
仕上げに、たっぷりのもやし、スライスした赤玉ねぎ、そして新鮮なパクチーとミントの葉を山盛りにトッピングする。くし切りにしたライムを添えれば、専門店にも引けを取らない本格的な『鶏肉のフォー』の完成だ。
冷蔵庫から、あらかじめ冷やしておいたベトナム産の輸入ビールを取り出し、グラスには注がずにボトルのまま栓を抜く。
「いただきます」
まずはライムを絞らず、そのままスープを一口。
鶏ガラのあっさりとした旨味の奥から、八角とシナモンの甘く複雑な香りが鼻に抜け、ナンプラーの深いコクが後を引く。徹夜明けの五臓六腑に、温かいスープがじんわりと染み渡っていく。
続いて、ライムをギュッと絞り、パクチーと麺を一緒に箸で持ち上げてすする。
ツルツルとした喉越しの良い米粉麺に、ライムの鮮烈な酸味とハーブの清涼感が絡み合い、食欲が爆発的に刺激された。鶏むね肉はスープを吸ってしっとりと柔らかく、シャキシャキのもやしが良いアクセントになっている。
熱いフォーをすすり、スパイスで額にうっすらと汗をかいたところで、よく冷えたベトナムビールを喉に流し込む。
東南アジア特有の、すっきりと軽くキレのある薄味のビールが、口の中のスパイスとハーブの香りを綺麗に洗い流し、爽快感だけを残していく。
「……最高だ」
俺は夢中で箸を動かし、無我夢中でどんぶりを空にした。
本格的なスパイスとハーブの力で、徹夜の疲労と体の重さが嘘のようにスッキリと抜け落ちていた。自炊によって心身の回復を果たした俺は、週末の夜の開放感と、徹夜明け特有の妙なハイテンションに背中を押され、自室のソファで長編映画のシリーズを一気観し始めてしまった。
★★★★★★★★★★★
深夜2時。
映画を立て続けに二本見終えた俺は、口寂しさを感じて立ち上がった。
夕食に熱くてスパイシーなフォーを食べた反動で、今度は無性に「冷たくて甘いもの」が欲しくなってきたのだ。徹夜明けのテンションのせいか、眠気はすっかり飛んでいる。俺はいつもの黒縁メガネと無精髭、ヨレヨレのパーカー姿に着替え、深夜のオアシスへと足を向けた。
コンビニの自動ドアを抜けると、アイスの陳列ケースの前に、見慣れたモコモコしたシルエットがあった。
季節外れの着ぐるみのような特大フリースに身を包み、フードを深く被った女性。グローバルマーケティング部のフェルナンダだ。
昼間は体にフィットしたスーツで「パッション!」と叫びながら役員たちを圧倒していた彼女だが、オフの今は完全に省エネモードになり、いつものように猫背で小刻みに震えながらアイスの棚を物色している。
そして彼女の手には、すでに嫌な予感しかしない『ドクロマークの真っ赤な激辛ホットソース』の小瓶が握られていた。
「……こんばんは」
俺が少し離れた位置から声をかけると、彼女は肩をすくませて振り向いた。フードの奥から覗く瞳が、俺のオフ姿を認識するなり、ホッとしたように緩む。
「……あ。専属シェフ……こんばんは」
相変わらずの、ボソボソとした小声の陰キャボイスだ。
「今日は随分と遅いですね。しかも、極度の寒がりなあなたがアイスの棚の前にいるなんて珍しい。その手に持っているのは、まさかまたあの激辛ホットソースですか?」
「……うん。今日、会社ですごく大きなプレゼンがあって……大成功したのヨ。そのせいでアドレナリンが出すぎて、体が熱くて全然眠れないの。だから、自分へのご褒美も兼ねて、冷たくて甘いフルーツアイスでクールダウンしようと思って」
「なるほど。でも、それならなぜその激辛ソースを?」
「だって、ただ甘くて冷たいだけじゃ、アタシの燃え上がった魂まで風邪をひいて冷え切っちゃうでしょ……? だから、これでパッションの火種を注入しようと思って……」
彼女はそう言うと、カゴに入れた『冷凍マンゴー』の袋を示し、片手の激辛ホットソースを振ってみせた。
凍った甘いマンゴーに、舌の痛覚を破壊する激辛ソースを直がけする。それはもはやパッションの維持ではなく、単なる味覚への暴力行為だ。
「……フルーツにそのソースは殺人的すぎます。せっかくのプレゼン成功のご褒美なら、もっと上品で、なおかつ魂を燃焼させる情熱的なスパイスの融合を俺が教えましょう」
俺は彼女から激辛ホットソースの小瓶を取り上げ、代わりに冷凍コーナーから『プレミアムバニラアイス』を取り出した。さらに調味料の棚へ向かい、『粗挽き黒胡椒』と『一味唐辛子』、そして『レモン果汁』を購入した。
「えっ……? バニラアイスに、唐辛子とコショウ?」
「メキシコや中南米では、新鮮なフルーツにチリパウダーと塩、ライムをかけて食べる風習がありますよね。甘味と辛味、そして酸味のコントラストは、実はフルーツのポテンシャルを極限まで引き出す魔法なんです」
無人のイートインスペースのテーブルに彼女を座らせ、俺は調理を開始した。
まず、プレミアムバニラアイスの蓋を開け、その上に冷凍マンゴーをごろごろと贅沢に乗せる。
「ここに、レモン果汁を数滴垂らし、爽やかな酸味を加えます。そして……」
俺は買ってきたばかりの粗挽き黒胡椒をパラパラと振りかけ、さらに一味唐辛子をごく微量、マンゴーの黄色とバニラの白に映えるように散らした。
「完成です。『情熱と氷のスパイス・マンゴーバニラ』。アイスが溶け出さないうちにどうぞ」
黒胡椒と唐辛子がトッピングされた異質なアイスを前に、着ぐるみ姿のフェルナンダは一瞬ためらったが、俺への信頼からか、静かにプラスチックのスプーンを手にとった。
マンゴーとバニラアイス、そしてスパイスを一緒にすくい上げ、口へと運ぶ。
「……ッ!!」
彼女は目を丸くし、動きを止めた。
まず口の中に広がるのは、ひんやりと冷たいバニラの濃厚な甘みと、マンゴーのトロピカルな果肉感。しかしその直後、黒胡椒のピリッとした香ばしさと、一味唐辛子のシャープな熱情が舌を心地よく刺激する。スパイスの辛味が、アイスの甘さを全く新しい次元の「大人のデザート」へと引き上げているのだ。そこにレモン果汁の酸味が加わることで、後味は驚くほどスッキリとしている。
「……信じられない。冷たくて甘いのに、奥の方でじんわりと熱いものが燃えてる……。マンゴーの甘さが、何倍にも濃厚に感じるワ……!」
彼女はフードの奥の瞳をキラキラと輝かせ、次々とスプーンを動かし、瞬く間にアイスを口に運び始めた。
ボソボソとした省エネモードの口調でありながら、その食べるペースは昼間の情熱的な彼女を彷彿とさせる勢いだ。
「激辛ソースのように味を塗り潰すのではなく、甘みを引き立てるための微量のスパイス。これなら、体を冷やしつつパッションを保ちたいというあなたのご褒美にふさわしいでしょう?」
「……ええ。最高ヨ、専属シェフ。甘くて、冷たくて、でも魂はしっかり燃焼してる。……こんな素晴らしい食べ方があるなんて、知らなかったワ」
彼女は綺麗にスパイス・マンゴーバニラを平らげ、幸せそうに深く息を吐き出した。
「ふぅ……美味しかった。やっぱり、あなたは最高のシェフだワ」
彼女は着ぐるみの袖で口元を拭いながら、少しだけ寂しそうな声で呟いた。
「アタシ、昼間は無理してテンション上げてるから、すごく疲れるのヨ。……うちの会社の営業部にも、いっつも背中を丸めててパッションが足りない大きな男がいるんだけど……あのイチローにも、あなたのこの情熱的なアイスを食べさせてあげたいワ。そうすれば、少しは魂が燃えるかも……」
俺は硬直した。
昼間、彼女の無茶振りに応えて徹夜で資料を作り、魂をすり減らしていたのは、どこのどいつだと思っているのか。俺である。
(……お前に無茶振りされてパッションを吸い取られてるから、俺はいつも背中が丸まってるんだよ……!)
心の中で激しくツッコミを入れたが、もちろん口に出すわけにはいかない。
深夜のコンビニという魔法の空間で、同僚の裏の顔を知り尽くしている俺の気苦労は、こうして甘くて冷たいアイスのように、少しずつ溶けて消えていく……わけもなく、着実に蓄積され続けているのだった。




