第9話 黒字の朝
六日目の朝。
ヴェルグ港の空気は、明らかに変わっていた。
桟橋は埋まり、荷車が行き交い、魚を積んだ籠が次々と倉庫へ運ばれていく。
帳簿を広げたアシュレイは、静かに数字を追った。
入港数、試験前比五倍。
流通税収、前週比一・四倍。
討伐依頼数、二倍。
そして。
「……黒字だ」
小さく呟く。
総収支が、わずかだが正に転じている。
町長が目を見開いた。
「本当に……黒字か?」
「はい。まだ安定ではありませんが、転換点は越えました」
町長の背後に漂っていた赤が、淡く薄れていく。
完全に消えたわけではない。
だが、滞留は解け始めている。
外から歓声が上がる。
「決まったぞ! 東の商会が契約を戻してきた!」
商人が駆け込む。
「関税優遇停止を撤回だとよ!」
町長が思わず椅子から立ち上がる。
「早すぎる……」
「流通量で負けたのです」
アシュレイは冷静に答える。
「向こうも損をしたくない」
競争は感情ではなく、利益で動く。
ギルド長が入ってくる。
「……手数料一本化、正式に承認する」
不承不承といった様子だが、目の奥の赤は薄い。
恐れよりも、計算が勝ったのだ。
「成功報酬型も続行だ」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
町長が笑う。
「お前、本当に監査官だったのか?」
「ええ」
「王都は何を考えて追い出したんだ」
その言葉に、一瞬だけ胸が疼く。
「……方針の違いです」
窓の外、少年が走っている。
父親が網を修繕しながら笑っている。
漁船が三隻、同時に出港する。
右目に映るのは、赤ではない。
淡い金色。
信用の色だ。
その夜、町の広場でささやかな宴が開かれた。
「監査官殿に乾杯!」
「もう監査官ではありません」
「じゃあ何だ?」
問いに、少しだけ考える。
「……制度設計者、とでも」
笑いが起きる。
だが、胸の奥は静かではない。
広場の喧騒の向こう。
王都の方向に、赤黒い影が揺れる。
竜の輪郭は、さらに鮮明だ。
小さな黒字は生まれた。
だが、王国全体の赤は減っていない。
そのとき、右目が強く脈打った。
視界が一瞬、白く染まる。
幻視。
王都の上空。
負債の竜が翼を広げる。
聖剣の光が突き刺さるたび、竜は巨大化していく。
そして。
竜の瞳が、こちらを向いた。
「……!」
息を呑む。
視界が戻る。
広場の笑い声が耳に入る。
「顔色悪いぞ?」
町長が言う。
「少し、疲れただけです」
本当は違う。
これは警告だ。
ヴェルグの黒字は、世界の歪みに対する小さな反抗。
だが。
王都の負債は、確実に育っている。
宴の終わり、少年が近づいてきた。
「約束、守ったな」
「ああ」
「じゃあさ」
少年は真剣な目で言う。
「王都も、直せるのか?」
胸が締めつけられる。
「……簡単ではない」
「でもやるんだろ?」
迷いはなかった。
アシュレイは頷く。
「やる」
少年は満足げに笑い、走っていった。
夜空を見上げる。
星は静かだ。
だが、その背後で赤黒い影がうごめいている。
小さな町は救えた。
だが、これは始まりに過ぎない。
王国全体を覆う歪み。
聖剣の契約。
そして、負債の竜。
「次は、信用だ」
呟く。
港だけでは足りない。
都市同士を繋ぐ仕組みが必要だ。
独立した黒字を、連結させる。
赤に対抗するための、構造を。
遠くで雷鳴が響いた。
晴天のはずの空に、低い雲が集まり始める。
それは嵐の前触れか。
あるいは。
竜の羽ばたきか。
ヴェルグの黒字は確定した。
だが、戦いはまだ始まったばかりだった。
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