第36話 「帰還不能点」
地獄と化した聖都を呆然と見下ろす渡瀬の頬を熱風が撫でる。チリチリと小さな音を鳴らしながら火の粉が目の前をゆっくりと落ちていった。
尋常ではない光景から目を逸らすように渡瀬はテスラの方へ振り返った。
街の至る所に灯る炎が部屋の中を赤く照らしている。
「ワタセ様、今しかありません。ご決断を」
テスラが渡瀬の方をまっすぐに見据える。
その瞳から逃がしはしないという強い意志を感じた。
渡瀬は考える。
この天災に自分が居合わせた意味を。
この機会に逃げ出すことが死ぬまで眠り続ける少女への贖罪になるのか。
このタイミングで魔獣除けの結界を失う事がこの国へどのような影響を及ぼすのか。
考える。
自分がこの世界に転移した意味を。
渡瀬は決意した。
「――逃げます。ソフィアさんを連れて」
テスラはその言葉を聞いて張り詰めた頬を少しだけ緩めた。
「分かりました。では」
テスラが聖都の地図を取り出してテーブルの上に広げた。
「今この窓から見える部分で、おそらく最も火災の勢いが強いのはこのあたりです」
聖都は大聖堂を中心に放射状に広がる8つの大通りを基幹に作られている。
テスラはその北西の部分を指した。
「逆にこのあたりはまだ火が回っていません。ここの建物はほとんどが石造りですから」
指をすっと動かして北東の地区を指さす。
「広場に出たら、まっすぐ北東の大通りを走ってください。決して狭い通りには逃げ込まないように。火が回ったときに逃げ場がなくなります」
渡瀬がコクコクと頷く。
一刻も惜しいとばかりにソフィアの布団を剥いで小さな身体をそっと背負う。
テスラがソフィアの身体に大きなコートを掛けた。ソフィアの背丈をすっぽり包むほどの大きな、灰色のフード付きのコート。
「ソフィア様は目立ちますので、これで少しは」
確かに、銀髪も透き通るようなグレーの瞳もこの国に来てからソフィアの他に一人も見ていない。
この少女の容貌が一度見れば忘れられないのは、この世界の住民にとっても同じなのだろうと思う。
「それと、これを。こんな状況でも役に立つ時はあるはずです」
白い小さな布の袋を手渡される。
中には貨幣がじゃらじゃら詰まっていた。
渡瀬が受け取る。貨幣の他に小さな木箱が入っていることに気付く。
「あの、この箱は?」
「それは、ソフィア様が最も大事にしていた物です。余裕があればどうかそれも一緒に」
「……分かりました」
渡瀬は小袋と木箱を分けて左右のポケットに放り込んだ。
テスラが部屋の扉を開ける。
「幸運をお祈りしています」
恭しく頭を下げるテスラに渡瀬が疑問を感じて立ち止まった。
「テスラさんは一緒に行かないんですか?」
「はい。誰かがこの部屋に来たときに無人ですと、すぐにソフィア様の不在がバレてしまいますので」
テスラが優しく微笑んだ。それは渡瀬が初めて見るテスラの笑顔だった。
渡瀬はテスラの意図を察して衝撃を受けた。
ここに残れば少しは時間が稼げるかもしれないが、それでもソフィアが逃亡したことには遠からず気付かれるはずだ。
そうした時、この人は全責任を取ろうというのだ。聖女を逃がした罪を自分が全て被るつもりでこうして……。
震える声で渡瀬が尋ねる。
「テスラさんは、僕がこうすることが分かっていたんですか?」
「いえ、そういうわけでは。――ですが、ワタセ様がどのような決断をなさろうと、私はそれを支持するつもりでした」
テスラが再び深く頭を下げた。
「どうか、ソフィア様のこと、よろしくお願いいたします」
「――はい、必ず」
テスラの意志が固いことを知り、渡瀬は覚悟を決めた。
テスラに背を向け、ソフィアを背負って走り出した。
†
大聖堂前の広場は地獄の只中にあった。
周囲から迫り来る炎の熱に人々は怯え、風が吹くたびに逃げ惑った。
親とはぐれた子供、子供を見失った親、炎に炙られて半身に深い火傷を負った男、その他大勢の人がそれぞれに悲鳴や怒声を上げ、広場の中を彷徨っていた。
渡瀬はその光景を目に焼き付けるように前を見据え、北東の方角を目指して歩を進めた。
聖都の北東に位置する産業地区の中心を走る大通りは、この国で最も広く整備の行き届いた石畳の道である。
その道の両端には大手商会や国内有数の大工房が並び、多くの人や馬車が日が暮れるまで行き交っている。
その、この国で最も活気のあった通りも今や見る影もなく崩壊していた。
古く小さい家屋は地震に耐えられなかった軒並み倒れ、大きく豪奢な建物がポツポツと残っている。それが逆に火が延焼するのを防いでいた。
この辺りだけ石造りの建物が多いのも火の勢いが少ない要因なのだろうと渡瀬は考えた。
四方に逃げ惑う人に押されながら、渡瀬は聖都の外を目指して歩き続けた。
†
テスラは、渡瀬がソフィアを担いで広場から北東の方角に歩いていくのを部屋の窓から見ていた。
変わり果てた聖都を眺めながら、テスラは遠い日々に思いを馳せる。
自分が聖女の世話係になって3年。
その間、医者や治癒術師の他、呪術師、司祭、教師など多くの人間が聖女の健康管理や思想教育のためにここに呼ばれ、そして去っていった。
残りの命を燃やし尽くすことを運命づけられた少女たちの、その悲痛なまでの生き様から目を逸らさずに最後まで見続けようという覚悟のある人間は誰も居なかった。
自分だって例外ではないとテスラは思う。
第42代から数えて既に4人の聖女が短い生涯を終えるのをテスラは目の前で見てきた。
だが、それは決してその死を受け入れていたわけではなかった。
自分はただの世話係であり、なんの影響力も持たない立場だから仕方ないのだと自分に言い訳して心を閉ざしていたのだ。
誰にも、子供を見殺しにすることの罪悪感と正面から向き合うことは出来ない。
自分の立場を言い訳にし、あるいは聖女はもはや人間ではないと言い逃れして、その罪から目を逸らしてきた。
だが最後に、本当にギリギリになって現れたあの男は、ソフィアのことを一人の人間として認め、尊重していたように思う。
どこの馬の骨とも知れない男をこうして認めることになるとはテスラは到底考えていなかった。
その男は今、コートを羽織った聖女を担いで国外への逃亡を果たそうとしている。
テスラは目を閉じ、両手を合わせて祈った。
どうかあの二人のゆく道に、神のご加護があらんことを。




