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天知るや 陽の御影  作者: 日向あおい
13/13

13、大和

 

 長く続いた夏の終わりを予感させる清涼な風だった。


 真夜中にひと雨あったのか、深緑の大地に空を映し込んだ透明な雫がいくつも散っている。甘く籠った匂いは、やはり雨の残り香だろう。人の祈りなど無くとも自然に雨が降り注ぐ季節の訪れに日和は気が付いた。


 東の空を仰ぎ見る。陽の姿は未だなく、紫色の雲が薄く広がるように空を覆っていた。


 覇玖の手を借りて櫓の上に登り、東の空に背を向けて立つと、日和は櫓の下に集まった男たちの顔をゆっくりと見渡す。皆、すぐにも武器を手に戦場へと駆け出しそうな勇ましい表情を浮かべて日和を見上げていた。


 傍らに立った覇玖を一度だけ僅かに振り返ってから、日和は大空に流れていく薄雲を吸い込むように思いっきり肺を膨らませる。そして、言葉と共に強く息を吐き出した。



「私はお前たちに問いたい。何のために生まれて来たのか。何のために生き続けているのか。幸せを得るために身分や資格が必要なのか。そもそも幸せとは何か。死にたくはない。では、ただ死ななければそれでいいのか。生きるとは何か。誰かに生かされてはいないか。自分の意思で自分らしく生きていく。その生き方の中で生き甲斐を得ることはできるのか。その生き方の中にちゃんと幸せは存在しているのか。――その答えを私は知っている」



 日和の声は朗々と、まるで波のない湖に石を投げ入れたかのように平地の先まで響いた。



「生か死かを選ぶだけの世は終わった。これからは、より賢く、より豊かに、より鮮やかな生き方をする新しい世が始まる。雨が降らねば、降る季節に水を溜めおけば良い。美味い飯で腹を満たしたいのならば、鍬を持ち、汗を流し、田畑を耕せば良い。身の丈にあった幸福感を得たいのならば、お前の隣に立つ者の顔を見よ。お前たちには皆、新しい世を生きる価値のある存在だ」



 どれだけの者が日和の言葉を理解できただろうか。ひとりもいないかもしれない。それでも構わなかった。


 日和は覇玖から絹布の旗を受け取る。それには墨で大きく『倭』と描かれていた。



「我々が暮らすこの島は、大陸にある帝国に『倭』と呼ばれている。この『倭』は、小さい人という意味だ。長きに渡り血で血を洗う争いを続けてきた我らは、確かに巨大な帝国から見れば小さいのだろう。文字を知る者も少なく、ひとりの人間の経験や生き様を後世に伝え残す手段もない。嵐が来れば自ら命を差し出すように死に、雨が降らねば雨が降ることをただ天に請いながら干からびていく。常に空腹を抱え、他人の豊かさを妬み、奪い、殺し、そして再び餓えた時、お前たちは、けして拭い落とせない血にまみれた手と積み重なった怨みを背負うことになるのだ。果たして、このまま『小さい人』で甘んじて良いのだろうか。――私は嫌だ!」



 しーんと静まり返った場に、ただ日和の声だけが響く。もはや誰の心にも届かなかったのか。そう諦めかけた時だった。


 おれも嫌だ、と小さく声が上がる。それが火種となって広がり、まるで炎が燃え広がるように櫓の下の兵士たちが声を荒げ始めた。



「おれも嫌だ!」


「おれも嫌だぞ。おれは小さくはない!」


「帝国だか何だか知らないが、おれたちが馬鹿にされているみたいじゃないか」


「嵐で死ぬのは嫌だ」


「干からびて死ぬのも嫌だ」


「そうだ。戦はもうごめんだ。おれは毎日、腹いっぱい飯を食いたいんだ」



 あちらこちらで重なり合い、乱れるように騒々しく言葉を投げかけてくる彼らすべてを聞き取ることは不可能だった。


 覇玖が半歩寄り添ってきて日和の耳にささやく。



「大丈夫だ。続けろ。日和の声は皆に響いている」



 瞼だけで頷いて日和は持っていた旗を覇玖に渡し、代わりに別の旗を受け取る。長方形の大きな絹布の旗を半分だけ折って隠し、高く掲げて、日和は再び声を張った。



「私は、我々の暮らすこの島国を『和』と名付ける。『和』は、平和の『和』だ。争いごとがなく、不条理に死に行く者もなく、誰もが安心して暮らすことのできる国の名だ。皆、『和』のために、この戦を最後の戦と思い、戦え! そして、『和』は、耶羅國もなく、投馬國もなく、伊都國も富彌國も一支國もなく、烏那國も津島國も、そして九夜國さえもなくなった時に名を変える」



 日和は旗の隠していた半分を広げ、皆によく見えるように大きく掲げた。旗には、黒々とした墨で力強く漢字二字が描かれている。



「――すなわち、『大和やまと』」



 深緑の平原を駆け抜けてきた風が日和の背を軽く押して大和の旗を靡かせる。それは波打つようにバサバサと音を立てて人々の心に映り込んだ。


 おそらくこの場に文字を解する者は一握りもいないだろう。王族の中にも文字を操れない者が多い。日和の傍らに立つ覇玖でさえ簡単な文字しか読めず、『大』が大きいことを意味し、『和』が平和を意味することは分かっても、その二文字で何と読むのかは、日和が読み上げるまで分からなかった。


 それでも誰もが日和が掲げた二文字を食い入るように見つめている。先程までの喧噪が嘘のように櫓の周囲は静まり返っていた。


 その静寂の中で、武装した兵士たちに囲まれながら櫓の上を見上げていた須鞘は、ふと隣に立つ武尊を見やる。



父王ちちうえ、ひとつお尋ねしても構いませんか?」


「なんだ、こんな時に」


「まさに今、明らかにしておきたいことなのです。父王が姉王を女王にと推すのは、姉王に明琉の面差しを見ているからですか?」



 日和の演説はまだ続いている。その姿に瞳を細め、櫓を見上げていた武尊だったが、息子の思い掛けない言葉に眉を歪めて振り返った。



「お前、そんな風に思っていたのか」


「そうおっしゃったのは父王ですよ。以前、僕にそうおっしゃいました」


「まことに、まことに残念な真実を教えてやろう。日和もお前もまったく明琉に似ておらん。それでも儂が日和を女王にと推したのは、天意に従おうとしたまでのことだ」


「天意ですか?」


「そうだ、天意だ。華那國が耶羅國王によって滅ぼされた時、儂は天意を受けたのだ。戦火に焼かれる華那の集落から命からがら逃げ出してきた明琉は、まるで神々から授けられた、地上にたったひとつしかない宝玉を護るかのようにしっかりと両腕に赤子を抱きかかえていた」



 昔を懐かしむように武尊は白み始めた空を仰ぐ。


 あの時、明琉は火傷だらけであった。とても助かるとは思えないほどの酷い火傷を負い、見るも無残な有様であった。


 ところが、不思議なことに明琉が抱いていた赤子には傷ひとつない。戦火など素知らぬ顔で、こんこんと眠り続ける赤子を明琉から受け取った時、武尊は只ならぬ予感を抱いた。


 ――この娘こそが女王だ、と。


 須鞘は不服そうに顔を顰めさせて父親を見やる。



「それならそうとなぜ教えてくださらなかったのですか? 僕にも、姉王にも。話してくださっていれば、きっと姉王は――」


「儂の天意は儂だけのものだからだ」



 須鞘の言葉を遮り、武尊はぴしゃりと言い放つ。



「己の天意は己自身で受け取れ。他人の天意に便乗するな。それが自分の意思で生きるということだろう。どうやら日和はそのことに気付いたようだ。だから、ああも逞しく己自身の足で立つことができている」



 武尊に指し示され、須鞘は再び櫓の上に立つ女王を仰いだ。逞しいと称された女王の姿は、華やかというよりもまさに勇ましく、貫頭衣の上に鹿皮の胸当てを身に着けている。腰には剣を佩け、長く伸びた黒髪を頭の後ろで高く結い上げている姿は、女王というよりもまるで少年王の出で立ちだ。


 かつて須鞘と共に、女王の館の最奥の部屋で息を殺すように身を顰め、お互いだけを信じて寄り添ってきた少女の姿はどこにもない。ごくごく小さな硝子の欠片が胸に突き刺さる痛みを感じながら須鞘は柔らかな笑みを浮かべた。



「僕は今後生きている間に天意を受けることは無いかもしれません。それでも自らの天意という名の意思で己の生き方を選び、生きていきたいと思います」



 明るみ始めた東の空と平地の境に煌々とした光の亀裂が生じた。それは闇を押し退け、割り裂くようにしてこの世に誕生し、強烈な輝きを解き放つ塊となると、みるみるうちに丸い形を露わにする。


 朝陽だと、覇玖は胸の内で呟いた。日和の傍らから離れ櫓を下りれば、眩い光を放ちながら空高く昇り始めた朝陽が女王の背中を照らす。


 大地を揺れ動かす歓声が鳴り響いた。見れば皆、狂ったように雄叫びを上げ、手にした武器で盾を打ち鳴らしている。覇玖は、なるほどと櫓の上を見上げて笑む。彼らにはまるで、目を眩ますばかりの輝きを女王が放っているかのように見えるのだ。


 誰もが直視することのできない光の中で、日和は掲げていた旗を右腕に巻き付け、腰の剣を抜く。金属が擦れる音は日和の耳にしか届かないほど、自陣は熱狂の渦に包まれていた。


 その渦を絡め取るかのように日和は大きく、そして、高く大剣を掲げる。きらりと、朝陽の欠片を受けて白刃が美しく輝いた。煌めきを大きく吸い込んで日和は声を張る。



「出陣せよ!」












 支惟國の平地で始まった初戦は、どちらの勝利だとは断言できない結末を迎えた。しかし、その結末がもたらした両陣営への影響は天と地ほどに異なる。


 圧倒的な兵力差で劣っていたのは、日和軍の方であった。けして勝てるとは思えぬ五倍の戦力を相手に善戦したのだ。兵士たちの士気の高さが伺える。その士気の高さは初戦後さらに高まり、次の大勝利を生んだ。


 一方、負けるはずのない戦で勝利を得られなかった衣紗軍は消沈し、離脱者を多く生んだ。もはや統制の利かなくなった軍隊を引き連れて北へ北へと逃げるしか打つ手がなくなる。


 そして、本拠地である華那の集落で体制を整えようとした、そんな最中、華那の集落で奴隷たちが決起し、城柵の内へと攻め込んだ。彼らは衣紗を集落から追い出すと、日和を真の女王として迎える宣言を出す。


 華那の地を去るしかなくなった衣紗は千隼と共に僅かになってしまった兵を連れて、さらに北の地へと逃れていった。


 こうして日和は唯一無二の地位を確立し、三十を超す小國の盟主となる。と同時に、小國らを総称した国――大和の女王となった。


 実質的な支配は各國の王たちが行ったが、大事の時は女王の判断に委ねられ、王たちはけして女王の決定に逆らわなかった。故に、女王の治世は平穏で、七十年ほど続いたと言われている。


 女王は女王でありながら、暦を読み、病を診るなどの巫女としての役目も担ったため、民は彼女を「巫女みこ」と敬愛を込めて呼んだ。これは彼女が多くの民にとって、天上に唯一の輝きを放つ太陽のように眩しく偉大な存在であったことを意味する。


 また、中国の歴史書『魏志倭人伝』において、彼女は『卑弥呼』として名を刻んだ。詳しい記述は次の通りである。



 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。


 鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年巳すでに長大なるも夫婿ふせいなく、男弟あり、たすけて国を治む。


 王となりしより以来、見るある者少なく、千人を以て自ら侍せしむ。


 ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。



 ここで、いくつかの疑問が浮かぶ。即位して以来、館の奥に籠り、その姿を民に見せることがなかったと言われる女王とは、常に彼女だったのだろうかと。


 当時の日本人の寿命が四十年くらいだったとすれば、彼女の在位が七十年にも及ぶとはどのように考えても疑わしい。人知れず、女王の位を後継者に譲り渡していた可能性は考えられないだろうか。


 そして、次の一文。


 ――ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。


 この人物が誰であるかということだ。女王の弟ではないことは明らかであり、その者を彼女が深く信頼していたであろうことは想像に易い。


 生涯、婚姻を結ぶこと無く、孤高の存在であり続けられたのは、それを傍らで支える存在があったからではなかろうか。


 このように東洋の古代史に名を刻んだ女王であったが、日本史上では最大の謎ともされる。


 その所以は、日本最古の記録書である『古事記』および『日本書紀』に、彼女と彼女の国の存在を指す記述が一切見当たらないからだ。





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