第9話 黙認
スーパウロの朝は、今日も騒がしかった。
屋台の鉄板が鳴り、露店の客引きが声を張り上げる。
人々は笑い、怒鳴り、そして何事もなかったように日々を繰り返していた。
――表面だけを見れば、街は平和だった。
だが、タツヤの目にはもうその裏が透けて見えていた。
暴力も麻薬も、何も消えてはいない。
ただ、それらが一つの“秩序”のもとに並べられているだけだった。
街の至るところで、白い粉の取引は続いていた。
見て見ぬふりをする警察、無言で受け入れる市民。
その静けさの中で、少しずつ怒りが積もっていた。
南区の工場地帯で、市民のグループが声を上げた。
「マルアは街を汚している!」
「暴力も麻薬も、もう我慢できない!」
人々は勇気を振り絞って立ち上がった。
だが翌朝、工場は黒煙を上げ、リーダー格の男たちは姿を消した。
残されたのは、焼けた看板と、沈黙だけ。
「線を越えたんだ」
誰かが呟いた。
その一言で、全てが終わる。
タツヤは記事を書かなかった。
いや、書けなかった。
この街では、“正しさ”が一番危険な言葉だった。
そして、彼は理解していた。
――黙認することも、“守る”という行為のひとつの形だと。
協会に行くと、いつも通り駒の音が響いていた。
子どもも大人も、盤に向かって集中している。
その光景は平穏そのものだった。
だがその静けさの底で、タツヤの心だけがざらついていた。
駒を並べながら、頭の中で街の構造をなぞる。
王=マルア、金銀=警察と役人、歩=市民。
誰も逆らわず、誰も止まらない。
将棋盤と街が、同じ構造をしているように思えた。
夜、取材帰りの路地で、銃声が遠くに響いた。
一発。
間を置いてもう一発。
それでも、屋台の音楽は止まらない。
スーパウロの夜は、今日も変わらず生きている。
タツヤはため息をついた。
「……結局、誰も勝ってない」
翌日、協会の扉を開けると、見慣れた顔がひとつなかった。
「ルアンは?」
受付の女性が答える。
「最近、来ないんですよ。家の事情かもしれませんね」
それだけだった。
誰も深くは聞かない。
タツヤも何も言わず、静かに盤の前に座った。
指先に触れた歩の駒が、やけに冷たく感じた。




