第7話 悪を読む
協会の一角で、タツヤとアキヤマは盤を挟んでいた。
タツヤは覚えたての戦法を試していた。
角道を開け、銀を繰り出し、勢いよく攻め込む。
だが、アキヤマは一手も乱れない。
受けるのでもなく、流すのでもなく、ただ当然のように最善手を指す。
気づけば盤上の流れは、静かにタツヤの手を封じていた。
「……参りました」
頭を下げるタツヤに、アキヤマは柔らかく微笑んだ。
「悪くない。形は見えている。
あとは焦らないことだ。相手を読む前に、自分を読め。」
その言葉が妙に胸に残った。
勝てなかった悔しさよりも、何かを掴んだ手応えがあった。
外へ出ると、日はすっかり沈んでいた。
街のネオンが灯り、車のクラクションが響く。
だが、タツヤの耳にはまだ、盤上の駒音が残っていた。
スーパウロの夜は、奇妙な均衡を保っていた。
誰もが少しずつ嘘をつき、少しずつ罪を犯す。
路地裏での喧嘩、スリ、ひったくり──そんな小さな悪は、日常の一部として流されていく。
だが、ある境界を越えた者だけは、必ず消えた。
その境界の名を、人々は「マルア」と呼んでいた。
ある夜、タツヤは取材帰りに、白い粉を手にした男を見た。
震える手で袋を握り、壁にもたれ、ゆっくりと崩れ落ちていく。
通報したが、警察の声は冷たかった。
「その区域は……“処理済み”です。問題ありません。」
「問題ない? 人が倒れてるんだぞ!」
「繰り返します。問題ありません。」
通信が切れた。
すぐに黒塗りの車が止まり、無言の男たちが現れ、倒れた男を運び去る。
道端の人々は視線を逸らし、屋台の音楽だけが続いていた。
翌日、街はいつも通りだった。
だが午後、別の噂が流れた。
新しいギャング組織が倉庫街を拠点にし、マルアの縄張りに手を出したという。
その夜、銃声が二度響いた。
翌朝、倉庫は焼け落ち、関係者は全員行方不明。
地元の人々は短く言った。
「線を越えた」
タツヤは理解した。
この街では、暴力は放置されているわけではない。
むしろ、暴力が管理されている。
小さな悪は許される。だが、力を持とうとした瞬間に、容赦なく叩き潰される。
その秩序の上で、街は平和を保っているのだ。
編集部に戻り、タツヤは事件の記事を提案した。
編集長はタバコをもみ消し、短く言った。
「やめとけ。書くな。お前、まだ“線”を知らないな。」
「線?」
「マルアの名前を出すな。
警察も政治も、あいつらの“読み”の中にいる。
この街では、記事より命の方が軽い。」
タツヤは言葉を失った。
それでも、何かを伝えなければという衝動が残った。
夜、協会の前を通ると、ガラス越しにアキヤマが盤を見つめていた。
指先が駒を置く。音が響く。
その一手は、まるで街全体を指しているようだった。
――守るための一手か、それとも支配の一手か。
タツヤは拳を握り、静かに呟いた。
「この街は、誰かが読んでる」
そしてその“誰か”が、
自分の尊敬する人と重なっていくことを、まだ知らなかった。




