第6話 見えない一手
協会の朝。
盤を並べる音と、子どもたちの笑い声が響く。
その中でルアンがタツヤの袖を引いた。
「先生、昨日の寄せ、ちゃんと覚えてますよ!」
「お、すごいな。俺より覚えるの早いじゃないか」
「そんなことないです。先生、いつも“読む前に息を整える”って言うでしょ? あれ、好きなんです。」
タツヤは笑った。
たった一言で、心が少し軽くなる瞬間だった。
スーパウロ将棋協会に通い始めてから、半年以上が経った。
タツヤの生活は、すっかりこの街のリズムに馴染んでいた。
昼は記者として取材をこなし、夜は協会で駒を握る。
盤の音が鳴るたび、騒がしい外の世界が遠のいていくようだった。
だが、静けさの裏には、言葉にできない“ざらつき”があった。
協会の前には、いつも黒い車が停まっていた。
降りてくる男たちはスーツ姿で、礼儀正しく会釈を交わし、
封筒を手渡していく。
誰もそれを怪しむ様子はない。
まるで街の流儀のひとつであるかのように。
その帰り道、タツヤは南区の市場通りを歩いていた。
露店が並び、肉の焼ける匂いが漂う。
だがその奥の路地で、異様な光景を目にした。
ボロボロの服を着た男が、紙片を握りしめている。
その前に立つ若者が、小さな袋を渡す。
袋の中には、白い粉。
それを受け取った男は震える手で握りしめ、
「ありがとう……」とだけ言って去っていった。
取材の癖で、タツヤは足を止めた。
近くの交番の前に警察官が立っている。
彼は一部始終を見ていたはずなのに、動く気配がない。
タツヤは思わず駆け寄った。
「今、あの路地で薬の取引をしてました。見てましたよね?」
警察官は淡々と顔を上げる。
「……証拠は?」
「見てました。今も袋を持って――」
「そういうのは、うちの扱いじゃないんだ」
「扱いじゃない? 犯罪ですよ」
「上の指示だ。ここでは、そういうもんだ」
タツヤは言葉を失った。
“上”とは誰なのか。
なぜ、誰も声を上げないのか。
その夜の空気は、いつもより重く感じた。
翌朝、編集部で記事をまとめた。
『南区で白い粉の流通か 警察の対応に疑問の声』
原稿を提出すると、編集長が静かにページをめくり、目を細めた。
「……お前、通報までしたのか」
「見たんです。明らかに薬物です。警察も見て見ぬふりで」
編集長は短くため息をついた。
「タツヤ、“マルア”って聞いたことあるか」
「マルア……?」
「この街の裏を回してる連中だ。
麻薬、金、暴力、仕事、全部奴らの枠の中にある。警察も、市も、それを壊さない。
だから“取り扱えない”んだ」
「そんな……みんな知ってるんですか?」
「知ってるさ。けど、書けない。書いたら命が詰む」
編集長の声には、長年スーパウロで生きてきた者の重みがあった。
その帰り、協会ではルアンがいつものように盤に向かっていた。
擦り切れた駒箱を抱きしめ、真剣な眼差しで歩を進める。
「先生、今日こそ勝ちますからね!」
その明るさに、タツヤは不意に胸が熱くなった。
――この笑顔だけは、守りたい。
外では誰かが堕ち、沈黙が支配している。
だが、この小さな空間にはまだ“希望”があった。
翌日の新聞には、別の記事が載った。
『スーパウロ将棋協会、地域に光を――理事長アキヤマ氏の尽力』
白い粉の話題は、どこにもなかった。
守ること。読むこと。信じること。
そのどれもが、少しずつ別の方向へ動き出していた。




