第23話 理の限界
ニュースが、夜の街を照らしていた。
画面の中で、炎が揺れている。
道路いっぱいに燃える車。逃げ惑う人たち。泣いてしゃがみ込む誰かの肩を、別の誰かが必死に引っ張っている。
キャスターの声は震えていた。
「市内各地で連続的な暴力事件、放火、略奪が発生。組織“マッセ”による犯行との見方が強まっています。警察の対応は追いついておらず――」
それはもうニュースじゃなかった。
状況報告ですらない。ただの“悲鳴の中継”だった。
画面の端で、顔をすすだらけにした老人が叫んでいた。
「マルアの頃はまだルールがあったのに……! なんでこんな、めちゃくちゃに……!」
その声だけははっきり届いた。
タツヤは無言で、その声を聞いた。
協会の明かりは落としてある。窓の外ではサイレンが何本も重なり、夜の空気を細かく割っていく。
(……俺が読めた範囲は、守れた。)
現実として、それは事実だった。
“ここが狙われる”と踏んだ区画に先回りして人を逃がした。
危ない通りは別ルートに誘導した。
火が来るならどの建物から燃え移るか、どこなら耐えるか、その順まで読んだ。
結果、彼の読みで逃げられた家族がいた。
無事に朝を迎えられた人間は、確かにいた。
そこまでは届いた。
だが。
(その外は、燃えてる。)
同時に起きた別の区画の襲撃までは、手が回らなかった。
読めなかったわけじゃない。ただ、“そこまで両方は守れなかった”。
だから、死んでいる人がいる。
自分が守った場所の光と、自分が見放した場所の炎が、同じ夜空に同時に立っている光景は――
胸のどこにも置き場がない。
協会のドアが、強く開いた。
「先生!」
ルアンだった。息が荒い。走ってきたのがすぐわかる。目も少し赤い。
「先生……南区、やばいですよ。友達の家、燃えました。マジで。」
「見た。」
タツヤはゆっくりと、テレビから目を外した。
ルアンの拳は震えていた。
怒っている。けど、怒りだけじゃない。悔しさ、怖さ、恥、自分への嫌悪。色んなものが混じって熱になっている。
「俺、何もできないんです。逃げることしかできない。守られてるだけで、情けなくて……」
その言葉はまっすぐだった。
あの明るい笑い声で将棋を打ってた少年の声じゃない。スーパウロで大人になっていく途中の、人間の声だった。
タツヤは立ち上がらないまま、正面からルアンを見た。
「いいか。お前は考えろ。」
「……考える、だけ?」
「“考えるだけ”じゃない。“考えること”だ。」
言葉を選びながら、タツヤは続けた。
「殴って強くなるやつは、いずれもっと強いやつに殴られる。ナイフを持つやつは、もっと長い刃を出されたら終わりだ。夜の街で吠えるやつは、夜を越えたら忘れられる。」
ルアンは黙って聞いていた。
「でも、考えるやつは残る。
考えるやつは、奪われてもまた取り戻す道を引ける。
何度壊されても、新しい手を作れる。
最終的に街を変えるのは、そういうやつだ。」
ルアンは目を伏せ、歯を食いしばった。悔しさの熱が、少しだけ別の熱に変わる。
「……わかりました。もっと考えます。考えられるようになります。」
タツヤは小さく頷いた。
ルアンはそれ以上何も言わず、深く頭を下げ、そのまま走るように協会を出ていった。
彼の背中はまだ細い。けど、もう子どもの背中ではなかった。
あいつはいずれ、前に立つ側に行く。
タツヤはそれを、はっきり知っていた。
夜になった。
協会の裏路地は湿っていて、遠くからパトカーの赤色灯だけがビルの壁に反射していた。
ソンダイがそこにいた。一本目の煙草がほとんど吸い終わっていて、二本目に火をつけようとしているところだった。
足元に小さなキャリーが置かれている。持ち手には黒いテープが巻かれていた。
通気の穴の向こうで、灰色の影が一度だけ瞬く。
ソンダイは覆いを指先で直し、何も言わなかった。
「……動いたぞ。」
低い声で、それだけ言う。
タツヤが近づく。
「動いたのは、誰だ。」
「コーヘイだ。」
ソンダイは煙を吐きながら続ける。
「南区の倉庫街。マッセの拠点、ほぼ特定した。武器も薬も人間も、だいたいそこに固めてある。今なら、頭目のやつもそこにいる。」
タツヤの目が細くなった。光が消えるわけじゃない。ただ、輪郭が鋭くなる。
「……今は動くな。」
「は?」
ソンダイが眉を上げる。ふざけてるときの顔じゃなかった。
「突っ込むな。」タツヤははっきりと言った。「まだ全体が読めてない。手駒の配置も、逃げ道も、相手の本当の狙いも。こっちが先に踏み込めば、逆に詰まされる。」
「俺だって馬鹿じゃねぇんだぞ。ちゃんと下調べして――」
「ソンダイ。」
タツヤの声が落ちた。低く、静かに落ちた。
それは怒鳴り声でも、焦りのにじんだ声でもない。
ただ、「ここから先は絶対に折れない」という線を引いた声だった。
その一言だけで、裏路地の空気が一瞬冷えた。
「……お前が死んだら、読む意味がなくなる。突っ込むな。これは命令だ。」
ソンダイはしばらく黙った。煙草の火が、風で少し揺れていた。
そのあと、ゆっくりと息を吐いて、笑った。
「……あいかわらず、王様みてぇな言い方するよなお前。」
「違う。玉だ。」
「同じだろ。」
ソンダイは肩をすくめる。その仕草は軽い。けど、目の奥は軽くなかった。
それはわかっていた。タツヤも、当然わかっていた。
「……わかったよ。」ソンダイが言う。「しばらく様子見る。突っ込まねぇ。お前の“読み”に合わせる。」
口ではそう言った。
でもその声の奥には、別の音があった。
“待てない”って音。
“置いていかれたくない”って音。
“俺も盤上に座りたい”って音。
英雄を見上げてるだけの位置に、彼はもう戻れない。
あの頃みたいに、傍観する側に戻る気なんて、もうない。
ソンダイは踵を返し、キャリーの取っ手に指をかけて軽く持ち上げた。
路地の端で一度だけ振り返ったが、何も言わずにそのまま闇へ消えた。
その背中が完全に見えなくなった瞬間、タツヤの胸に小さなざわめきが走った。
(……嫌な感覚だ。)
今まで、読みの外から来る危機は全部“街の方角”からだった。
けど今、初めてそれが“仲間の方角”から来た。
それはつまり、自分の読みの構図そのものが変わり始めたってことだ。
風が吹き抜けた。
協会の中、机の上に置いてあった駒がひとつ、ころん、と落ちる。
誰も触っていないのに、音だけが鳴った。
その音はやけに大きく聞こえた。
(……この街はまだ落ちない。落とさせない。俺は読む。守る。隙は必ず生まれる。見つけて刺す。それだけだ)
タツヤは、改めてそう思った。
その夜。
南区の倉庫街に、ひとつの影が近づいていた。
約束を破るつもりなんて、端からないという顔で。
その影を、誰も見ていなかった。
タツヤですら。




