第22話 盤外の報復
翌日。
スーパウロの空は灰色に沈んでいた。
将棋協会への突入は、一夜で全市の話題になった。
テレビもネットも、同じ映像をくり返す。砕けた壁。突っ込んだトラック。粉塵の中に立つ男。
“マッセによるテロか”“模倣犯か”。
誰も真実を知らないまま、言葉だけが増えていく。
協会の前には報道陣と野次馬が群がっていた。
ブルーシートが瓦礫を覆い、焦げた木の匂いが風に乗る。
タツヤは黙って、それを見ていた。
(……子どもたちの声が消えるだけで、街の音も変わる。)
昨日、誰も死ななかった。
それは“守った”と言える。
けれど胸に残るのは安堵ではなく、ぎりぎりで受け止めた手のひらの熱だった。限界の手触り。
すぐそばで、中年の男たちが煙草をふかしながら話している。
「マルアの時のほうがまだマシだったな。秩序はあった」
「ほんとにな。あの頃は怖かったけど……今はもう、何もかも壊れてる」
タツヤは一歩だけ足を止めた。
顔は向けない。言葉だけを耳で受け取る。
(マルアのほうがマシ、か。)
皮肉でも悪口でもない。
ただの実感。恐怖のさらに奥に沈む“諦め”の声だ。
必要悪――アキヤマが最後まで抱えていた理屈。
“悪でも、秩序を守るなら善に近い”。
あの言葉を正面から否定してきた自分が、今は少しだけ、その重さを手の中に感じている。
「……理想だけじゃ、守りきれねぇのか」
風が吹いた。
崩れた壁の隙間で、転がっていた駒がカランと鳴る。
拾い上げると、それは“金”。地味で堅実、守りの要だ。
「お前がそんな顔するの、久しぶりに見た」
背後から声。ソンダイだった。
灰色の空と同じ色のジャケット。片手に紙コーヒー。
「現場、地獄だぞ」
軽口のトーンなのに、瞳は眠っていない。
「暴行、略奪、放火。連中、もう止まらねぇ」
タツヤは答えず、指先で“金”を転がした。
「……マッセの頭目、コーヘイ・ジエゴって言ったな」
「そう。マルアの残党。けど、あの頃とは違う」
ソンダイの声が低くなる。
「あいつら、“金”でも“支配”でも動いてねぇ」
「なら、何で動く」
風がやみ、灰色が濃くなる。
ソンダイは短く息を吸って、口の端で笑った。
「“恨み”だよ。
街に対して、世界に対して――それと、お前に対してもな」
タツヤの目が細くなる。
「……俺に、か」
「マルアを潰した英雄だろ。
“秩序を壊した男”に、“無秩序の亡霊”が牙を剥く。
筋は通ってるじゃねぇか」
遠くでサイレンが鳴る。
煙がまた一筋、空へ昇った。
タツヤはしばらくそれを見つめる。
「……アキヤマが言ってた。
『悪を排除しても、世界は善にならない』ってな」
ソンダイが短く息を漏らす。
「アイツの言葉を今になって持ち出すとはな」
タツヤは頷きも否定もしない。小さく笑っただけだ。
そして、ゆっくりと声を落とす。
「読む。守る。
それが俺の仕事だ。
隙は必ず生まれる。見つけて刺す。
それで街を繋ぐ」
静寂が降りる。
ざわめきが遠のき、空気が冷えていく。
ソンダイは肩をすくめ、苦笑した。
「やれやれ。誰も死ななければいいけどな」
タツヤは答えない。
代わりに“金”の駒をポケットにしまう。掌の熱が、ゆっくり落ち着く。
風がまた吹いた。
灰色の空の下で、街は別の音を鳴らし始める。
“読みの外側”は、まだ輪郭があいまいだ。だが、音だけは近づいている。
そしてその夜、マッセは次の一手を打った。




