第21話 盤上の崩壊
昼のスーパウロ将棋協会。
いつもなら、駒の音と子どもたちの笑い声が重なっている時間帯だった。
盤面を囲んで「それ取っちゃダメだって!」「え、ずるい!」なんて声が飛んで、タツヤはそれを聞きながら小さく笑う。
その、はずだった。
――爆音。
正面のガラスが砕け散り、壁が押し潰され、空気そのものが裏返るような衝撃が協会を飲み込んだ。
トラックが突っ込んできた。
鉄とコンクリートがぶつかる鈍い音。
棚が弾け飛び、将棋盤が宙を回り、駒が音もなく散っていく。
木くずと粉塵が煙のように舞い上がる。
一瞬遅れて響く、通りの悲鳴。
「なにがあった!?」
「誰か中に――子どもがいたんじゃないのか!?」
協会の入り口付近はほぼ押し潰されていた。
粉塵で白く濁った視界の奥、その瓦礫の影から、ゆっくりと人影が立ち上がる。
タツヤだった。
服に粉をかぶりながらも、傷ひとつない。
表情は静かで、むしろ冷たい。
「……やっぱり来たか。」
低い声でそう言いながら、タツヤは足元に散った駒のひとつを拾い上げる。
それは“玉”。
親指と人差し指でそれを強く握りしめると、木がかすかに軋んだ。
「今日は臨時休業だ。誰もいない。」
誰に向けたわけでもなく、ただ確認するように呟く。
協会は今日は休みにしてあった。
理由は「消毒と整理」。
本当の理由は、昨夜からずっと胸に残っていた“嫌な手の匂い”だ。
この時間帯なら本来、子どもが一番多い。
保護者も何人かは一緒にいる。
つまり、いちばん派手に壊せる時間帯。
そこまで読めたからこそ、今日この時間の協会には誰も入れていない。
それでも、壁は壊された。
(読めたのは、ここまでか。)
タツヤはゆっくりとトラックに近づく。
運転席のドアは歪んで半開き。その隙間から、運転手の男が前のめりにぶら下がっていた。
目は焦点が合っていない。口元から白い泡。
腕には、ためらいなく重ねられた注射痕。
「……薬か。飛ばされてる。」
自分の意思で突っ込んだわけじゃない。
命令も、説得も、脅しすらいらない。
ただ一台のトラックと、壊していい場所さえ与えれば、協会は崩せる。
(マルアじゃない。マルアならこれはやらない。)
鍵を抜き取り、エンジンを止める。
タツヤは何も言わずに鍵をポケットにしまった。
外からサイレンの音が近づいてくる。
通りには野次馬の声が増えていた。
「子どもは? 中に子どもいなかったか!?」
「さっきまでいたんじゃ――」
「いない。」タツヤが短く言った。
振り向く目は誰よりも冷静で、誰よりも疲れていた。
瓦礫の中をゆっくり歩いて、崩れた壁の向こうを見た。
昼の光が差し込んでいる。
吸い込まれそうなほど明るいのに、そこにある空気だけ刺すように冷たい。
(直接、俺を狙いに来てる。名前まで出して恨まれてるなら、対応はできる。
でもこれは、俺の“後ろ”を狙った手だ。
俺の読みは、俺の目が届く範囲だけだ。)
街全体を守ることはできない。
協会だけなら守れる。
だから今日は守れた。ここは無人だった。
でも、もし次が協会じゃなくて――と考えるのは、正直、嫌だった。
“読みの外側”。
タツヤはそれを、はっきりと自覚した。
今までも頭ではわかっていたはずのものが、この瞬間だけは手触りのある現実として胸に乗った。
(……こういう手を平気で打つ奴が、街を取ろうとしてる。)
粉塵の中、タツヤは“王”の駒を静かに握り直す。
人差し指と中指に当たる木肌は、まだあたたかい。
壁の割れ目から差し込む昼の光の向こう側。
そのさらに奥に、見えもしない誰かが笑っている気がした。
スーパウロの崩れ方が、変わった。
支配でも交渉でもない。
ただ「壊す」が目的の力が動いている。
そのやり方に、タツヤはほんの一瞬だけ眉を寄せた。
怒りではない。
焦りでもない。
これは、将棋と同じじゃない。
盤の上では起こらない種類の手だ。
(ここまでは、まだ守れる。
けど、全部は守れない。)
協会の外から警笛が鳴る。人が叫ぶ。通りが騒がしくなる。
タツヤは一度だけ目を閉じてから、ゆっくりと息を吐いた。
――この日は、タツヤの読みが街を救った。
だが同時に、“届かない場所”がはっきりと形になった日でもあった。
スーパウロの崩壊は、もう盤の外で始まっている。




