第17話 静かな盤の上で
マルア崩壊から、数年が経った。
スーパウロの街は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
警察も政府も、ようやく本来の仕事をするようになった。
腐敗はまだ残っている。
だが、もう人々は目を伏せて歩かない。
通報すれば警察が動き、事件が起きれば、正しい手続きで終わる。
――そんな“普通”が戻ってきたことが、何よりの変化だった。
かつて暴力と恐怖で支配されていた街が、
いまは少しずつ、選ぶことのできる街になっていた。
*
スーパウロ将棋協会。
扉を開けると、駒を打つ音と、子どもたちの笑い声が響く。
昼下がりの光が盤面を照らし、木の香りが穏やかに漂っていた。
「そこ、焦って銀を出すと取られるぞ。ほら、こうだ。」
タツヤが指すと、少年が悔しそうに眉を寄せる。
「うわー、また負けた!」
「いいんだ、それも経験だ。負けた分だけ、読む目が育つ。」
教室のあちこちで笑いが起こる。
子どもたちの指先が、夢中で駒をつまんでいた。
タツヤは協会の新会長として、
街の子どもたちに将棋を通じて“考える力”を教えていた。
若くして会長に選ばれたのは、誰よりも将棋に情熱を注ぎ、かつて“王”アキヤマを超えた唯一の男として、人々に認められたからだった。
かつてアキヤマが使っていた理事長室は、
今では子どもたちが自由に集まる図書室になっている。
窓の外から、ボールを蹴る音が聞こえた。
青空の下で、少年たちが笑いながら走り回っている。
その中に、ひときわ声の通る少年がいた。
「先生ー! 試合終わったら行きますからねー!」
ルアンだった。
タツヤは笑って、窓の外に手を振る。
「おう、今日も元気だな。」
「当たり前っす! 将棋でもサッカーでも、負けませんから!」
夕方、汗を光らせたルアンが協会にやって来る。
「先生、今日もお願いします!」
「よし、勝負だ。」
盤を挟み、二人の真剣な眼差しが交わる。
駒が打たれるたびに、空気が少しずつ張りつめていく。
――この街は変わった。
かつて命を奪い合った者たちがいたこの場所で、
今は若者たちが“未来を読む”ために盤を囲んでいる。
だが、闇が完全に消えたわけではない。
裏路地では今も、誰かが何かを取引している。
暴力の火は小さくなっただけで、
いつまた燃え上がるかは誰にもわからなかった。
タツヤはそんな現実を知りながら、
静かに駒を進めた。
――たとえ街の形が変わっても、
人の心には、まだ“次の手”が潜んでいる。
子どもたちが次々と盤を抱えて集まる。
タツヤはその輪の中で笑い、ゆっくりと告げた。
「考えるってのは、誰かを倒すことじゃない。
誰かと一緒に、生き残る方法を探すことだ。」
外では夕陽が沈み、街の灯がともる。
駒音がひとつ響き、子どもたちの笑い声が重なった。
それは――
かつて“王”を討ち、“玉”として生きることを選んだ男が、
次の世代へ“思考の火”を渡す音だった。
そしてタツヤの瞳には、
あの日の戦いよりも強い光が宿っていた。
*
だがその静けさの奥で――
まだ見ぬ“乱れ”が、ゆっくりと形を取り始めていた。




