第15話 守って、読み切って、刺せ
沈黙が続いていた。
盤上の駒は、完璧な均衡を保ったまま動かない。
それはまるで、この街スーパウロの秩序そのもの――
静かで、美しく、しかしどこか歪んでいた。
アキヤマの指先が、静かに駒を撫でる。
長考の末に放たれた▲4五歩。
鋭く、正確で、隙がない。
長年積み上げてきた“思考”そのものが指しているようだった。
タツヤは盤を見つめたまま、息をひとつ吐く。
――これが完成された将棋。
誰が見ても、アキヤマの一手は完璧だった。
それでも、タツヤの目に迷いはなかった。
守る。読み切る。そして刺す。
この一年と数ヶ月、タツヤは将棋にすべてを賭けてきた。
奇策を捨て、派手さを捨て、ただ地道に積み上げた。
何百もの敗北の先に、ようやく辿り着いたのがこの“読み”だった。
歩を寄せ、金を上げ、角を引く。
静かな手の中に、研ぎ澄まされた意志があった。
それは勝つためではなく、“生き残るため”の将棋だった。
アキヤマの眉がわずかに動く。
その微細な変化を、タツヤは見逃さなかった。
――あの夜と同じだ。
脳裏に焼きつく記憶。
協会の会長室、閉ざされた扉、張り詰めた空気。
自分を消せるはずだった男が、あの夜、沈黙した。
「……なぜ、俺を消さなかったんですか。」
駒を持つ手を止めたまま、タツヤが問う。
アキヤマの瞳がわずかに揺れる。
返ってきた声は、どこまでも静かだった。
「……君に見ていた。かつての私を。」
タツヤの胸の奥で、何かが弾けた。
それは怒りでも、悲しみでもない。
“人間のためらい”――それが、どんな理論よりも深い読みを生んだ。
(あの夜、あなたは俺を消せなかった。
つまり、人の心までは制御できなかった。)
その一瞬、アキヤマの銀が止まる。
わずかに、震えた。
――ここだ。
△5六銀。
盤が鳴る。
観客の誰もが息を呑んだ。
音のない爆発のように、空気が変わる。
アキヤマの指先が止まる。
その一手で、長く積み上げてきた均衡が崩れた。
「……なるほど。」
アキヤマの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「私の“ためらい”を、読んでいたのか。」
タツヤは静かに答える。
「あなたが俺を消さなかったとき――
もうこの一手は決まっていました。」
アキヤマは盤を見つめ、ゆっくりと息を吐く。
駒音が静まり、世界が止まる。
やがて、アキヤマの右手が膝の上に戻る。
「……投了だ。」
盤上の音が消えた。
審判の声が響く。
「勝者――タツヤ!」
拍手が爆発した。だが、その音すら遠く感じた。
タツヤは立ち上がらず、盤を見つめた。
アキヤマが立ち上がる。
敗者ではなく、すべてを出し切った男の顔だった。
「君は、積み重ねで俺を越えた。
私はこの街を“悪”で支えてきたが、
君は“読み”で守った。」
タツヤは顔を上げた。
アキヤマの瞳には、もう濁りがなかった。
「この街を、託す。
私が見えなかった“明日”を、君が読め。」
その言葉を残し、アキヤマは光の中へ消えていった。
タツヤは盤上の駒を、一つずつ丁寧に戻す。
指先に伝わる木の感触が、まだ熱を持っていた。
――守って、読み切って、刺せ。
その言葉が、静かに心に刻まれる。
それは勝利の音ではない。
“心が交わった瞬間”の音だった。
観客の拍手が遠ざかる。
だがタツヤの中では、まだ盤が続いていた。
読み切れない未来。
それを見つめるための、次の一手が――
もう始まっていた。




