第13話 盤上の告発
――将棋の街、スーパウロ。
この街では、昼も夜も駒音が響く。
路地裏の石盤、屋台の横の小卓、喫茶店の片隅――
誰もが盤を挟み、静かに“読み合う”。
タツヤがこの街に来た当初、
彼はただ、将棋に救われた一人の異国者だった。
スーパウロ将棋協会に入り浸り、
アキヤマの指導に魅せられ、
盤の上にしか「秩序」を見出せないほど、打ち込んでいた。
気づけば、仕事終わりに協会へ向かい、
夜明け前まで対局を重ねる日々。
勝敗よりも、読みの深さに酔っていた。
――だが今、彼は違う理由で駒を握っていた。
スーパウロ最大の行事、
「国際将棋フェスティバル」。
市の全面後援、日本大使館、各国メディアが集う二年に一度の祭典。
街の中枢が“文化の顔”として動く日。
中央広場には数千人の観客。
巨大スクリーンが盤面を映し、
市長、企業家、警察幹部らが最前列に並ぶ。
その中央――タツヤの姿があった。
将棋を覚えて、わずか一年と数ヶ月。
彼は今、その頂点に立とうとしていた。
そのわずかな時間でタツヤは盤にすべてを賭けた。
仕事を減らし、睡眠を削り、
街のあらゆる場所で駒を打った。
協会の常連、露店の商人、老棋士、子ども――
誰とでも打ち、すべてを吸収した。
覚えた定跡は百を超え、実戦は千局を越えた。
対局者の指が震える癖まで読めるようになっていた。
そして、誰も彼に勝てなくなった。
ただ一人アキヤマを除き。
予選――圧倒。
攻める相手の狙いを三手先で潰す。
準決勝――静かな殺気。
相手が守れば、その守りを呼吸で崩した。
観客は息を呑み、噂が広がる。
「なんだあの男……」
「まだ一年しか経ってないらしいぞ……!」
審判も、他の棋士たちも言葉を失った。
決勝戦。
タツヤは盤の前に座り、相手の初手を見た瞬間、
すでに終局までの筋を読んでいた。
二十分後。
駒が静かに置かれる。
「勝者――タツヤ!」
歓声が爆発した。
将棋を覚えて一年と数ヶ月の若者が、
スーパウロの頂点に立ったのだ。
カメラのフラッシュが連続して光る。
実況が高らかに叫ぶ。
「優勝者タツヤ選手には――特別エキシビションマッチの権利が与えられます!
対戦相手は、スーパウロ将棋協会会長――アキヤマ氏!」
その名が響いた瞬間、会場全体がざわめいた。
誰もが夢見た、街の象徴との一局。
だがタツヤの瞳には、
歓喜も、誇りも、ひと欠片もなかった。
ただ、静かに燃える決意だけがあった。
――この盤で、すべてを終わらせる。
決勝の熱気がまだ残る中、
照明がタツヤを照らした。
マイクを握る司会が笑顔で近づく。
「見事な優勝でした! いまのお気持ちは?」
会場から拍手と歓声。
子どもたちが手を叩き、記者がカメラを構える。
巨大スクリーンには、“新星タツヤ”の名が映し出されていた。
だが、タツヤは一歩も笑わなかった。
瞳の奥には、別の光が燃えていた。
マイクを握り直し、声を絞り出す。
「……俺はこの街に来て、将棋を覚えました。
考えることが生きることだと教わった。
でも――この街は、考える者が報われない街です。」
ざわめきが起きる。
司会が困惑し、カメラマンが一瞬手を止めた。
「スーパウロを動かしているのは“秩序”なんかじゃない。
マルア。
この街の裏で人を殺し、麻薬を流し、
そして協会をも操っている組織の名前です。」
会場が静止した。
音も、光も、時間さえも止まったようだった。
ステージ裏で誰かが無線を走らせる。
数秒後、マイクの音が途絶えた。
“放送が切られた”。
だが――タツヤは微動だにしなかった。
それすら、読んでいた。
静寂の中、彼はマイクを置き、
壇上のアキヤマに視線を送った。
「言葉が届かないなら、
駒で伝えるしかない。」
観客のざわめきが、波のように広がっていく。
アキヤマがゆっくりと立ち上がった。
その仕草ひとつで、会場の空気が変わる。
「……見事だ、タツヤ。
君は“読み”でここまで辿り着いた。
だが、その先は命を賭ける場になる。」
「分かってます。」
タツヤの声は震えていなかった。
「この街を変えるには、誰かが死ななきゃいけない。
なら俺が死んでもいい。
あなたが認めるなら、真実を語ってください。」
アキヤマが目を細める。
微笑とも、覚悟ともつかない表情で頷いた。
「……いいだろう。
君が勝てば、語ろう。
だが負ければ、ここで消える。それが盤の掟だ。」
審判が息を呑む。
観客席の最前列では、政治家も警察幹部も身じろぎ一つできない。
――そして、駒が並ぶ。
初手。アキヤマ、▲7六歩。
二手目。タツヤ、△3四歩。
盤上の空気が一変する。
駒音が響くたびに、呼吸が削られ、
その静寂が街全体を支配していく。
命の重さが、盤に刻まれていく。
もう後戻りはできない。
負ければ、そこで終わる。
勝てば、街の“秩序”が崩れる。
タツヤの指が震える。
それは恐怖ではなかった。
――生きている証だった。
「読み合おう、アキヤマさん。
この街の未来を懸けて。」
アキヤマが微笑む。
「ようやく、盤の上で話せるな。」
観客は誰も声を出せない。
駒音だけが、スーパウロの夜を裂いて響いた。
そしてその音が、
“告発”の続きを刻み始めた。




