計略①
――事の発端は少し前に遡る。
呼び出された先の学園の講義室にて、セフォレッタは大いに困惑した。
オルヴァーグ公爵家の一人娘として生を受け、未来の王妃として育てられ17年。
いずれ国母となる者、人前で動揺する姿を見せるなど言語道断。
幼い頃からそう教え込まれてきた彼女だが、この状況においては麗しの美姫と讃えられている美貌に困惑を浮かべざるを得なかった。
立ち竦むセフォレッタの前には頭を下げる令嬢の姿がある。否、頭を下げるなどという生易しいものではない。
普段は使用されず、ほとんど人の出入りがないとはいえ、うっすら埃の見える講義室の床に両膝をつき、額を擦り付けるようにして身を伏せている。窓から差し込む夕日が艶やかな亜麻色の髪を照らしているが、癖のない髪は彼女の必死さを表すように酷く乱れていた。
「助けてください」
何が起こっているのかよくわからないが、せめて立ち上がって欲しい。床に額をつけずとも話を聞くくらいの度量は持ち合わせている。
そう思いながら声を掛けようと口を開いたセフォレッタを遮り、令嬢は焦るように口を開いた。
「無礼であることは承知しております。私の身分では声を掛けることすら不敬であることも。でも、私には……私にはもう、どうすればいいか分からないのです……!」
切羽詰まった悲痛な声だった。今にも泣き出しそうな声にセフォレッタはますます困惑の表情を浮かべる。
セフォレッタには婚約者がいる。彼女が未来の王妃として育てられたのと同様、未来の国王として育てられた人物、アレクセイ・エルファーン・フロレンツィ。この国の王太子である。
この国の法律では一定の年齢になる貴族は全員、王立学園への入学を義務付けられている。それは王族も例外ではなく、セフォレッタより1つ年上のアレクセイは一足早く、国内の貴族たちが学び集うこの王立学園へと入学していた。
本来であれば王族として、将来の国王として、他の貴族たちの標となるべき存在でなければならないにも関わらず――ここ最近、アレクセイに関する妙な噂が出回っていた。
曰く、アレクセイとその側近候補として行動を共にしている高位貴族の子息が数名、1人の令嬢と少々距離感が近い関係を築いているという。学年が異なるにも関わらず同じ講義室で講義を受けている彼らの姿や、休憩時間に裏庭で仲睦まじく昼食をとっている姿、彼らに花や高価な宝石や贈り物を贈られている彼女を見たという学生たちの話が密かに流布している。
それだけ聞いても眉を顰める話だが、その令嬢が男爵令嬢であり、かつ月に一度実施される試験において常に成績上位者として名を馳せている才女として有名だったことも噂話を面白おかしくする要因となっていた。
その令嬢の名前がエセル・マッシェル。マッシェル男爵家の娘であり、まさしく現在、セフォレッタの目の前で額を床に擦り付けている彼女である。
困惑の表情を浮かべるセフォレッタに気付かないまま、エセルはせきを切ったように口を開いた。
「無礼を承知でお願い申し上げます。お願いです、助けてください……! 私の不徳が招いたこととはいえ、このままでは本当に耐えられない……」
お願いします、お願いします、と涙声の混ざる言葉が繰り返され、セフォレッタは慌てた。
この状況は未だに理解できないが、只事ではない雰囲気であることは分かる。
「分かったから落ち着きなさい。まずは顔をお上げなさい。そのままでは髪も服も汚れてしまうでしょう?」
床に伏したままのエセルの肩に触れる。恐る恐る顔を上げたエセルの翡翠色の目は涙で濡れていた。
セフォレッタとエセルに接点はない。当然の事ではあるが、王太子の婚約者である公爵令嬢と男爵令嬢とでは身分が違い過ぎる。
とはいえ、才女と呼ばれるエセルのことはセフォレッタも王太子との関係が噂になる前から知っていた。周囲の好奇や嫉妬の眼差しを受けながらも真っ直ぐに背筋を伸ばして立つ姿を朧げに覚えているが、セフォレッタの前に膝をつき、悲痛な表情を浮かべる今のエセルにその時の面影はなかった。むしろ枯れかけの花のような風貌だ。
憔悴したエセルの様子にセフォレッタは眉を顰める。噂を鵜吞みにするならば、エセルは王太子や高位貴族子息たちの寵愛を受け、婚約者がいる相手に色目を使っている悪女だ。常識から言えば糾弾されても不思議ではないし、現に学園内の彼女に関する評判は地に落ちている。ただでさえ目立つ存在だったのが、王太子たちと関わったことで更に悪化している状況なのだ。中には嫌がらせめいた行為も始まっていると聞く。
セフォレッタの顔を見上げ、エセルは神に祈りを捧げるように胸の前で手を組んだ。
「お願いいたします、どうか王太子殿下をお止めください……! 私は王妃の地位など望みません。高価な贈り物も要りません。貴女様の地位を脅かすつもりもありません……! そもそも私には将来を約束した方がいるのに、あの方たちはちっとも人の話を聞いてくださらないのです……」
「……まぁ」
「私に関する悪い噂が広まっていることは存じております。でも、お願いです、どうか信じてください……! 私には心に決めた方がいるのです! その方が好きなのに、結婚の約束だってしているのに、それをあの方たちは信じず、ついには私を王妃にすると言い出し始めたのです……!」
「…………まぁ」
その話は初耳だ。
すっと目を細めるセフォレッタの前でとうとうエセルが泣き出した。嗚咽を上げながら懸命に言葉を紡ぐ。
「貴女様にこのようなお願いをすることすら厚かましいと重々承知しております……。でも、でも、私にはもう、貴女様に縋る以外の方法がわからないのです……。私を罰してくださって構いません! 退学でも、二度と社交界に出られなくなっても構いません! 罰なら受けます。貴族でなくなったって構いません! 殿下と結婚するなんて死んでも嫌です……!!」
ぽろりと聞こえた最後の言葉こそ、紛れもない彼女の本心なのだろう。
裏を返せば、その一言のために彼女はセフォレッタへ直訴した。己の身が危うくなることを覚悟の上で、王太子の婚約者であるセフォレッタに賭けたのだ。
エセルが口にした内容は未来の王妃として育てられたセフォレッタにとってみれば到底許容できるものではない。
そもそも、アレクセイとセフォレッタの婚約は王家からの打診で結ばれたものだった。歴史を遡れば国王を輩出したこともあるオルヴァーグ家の血筋を引く名門公爵家の令嬢、それがセフォレッタだ。
幼少期から王妃教育を受けて育ち、持ち前の美貌と才覚で社交界の華として君臨し、国王夫妻からの信頼も厚い。それにも関わらず、婚約者であるはずのアレクセイは彼女のことを避け、あろうことか男爵令嬢に惚れ込み、更には王妃にしようとしているという。
本来ならば屈辱や怒りを覚えるべきなのだろうが――セフォレッタの胸には全く別のことが去来する。
(今更、あの馬鹿王子を返却されても困るのだけど……)
正直なところ、アレクセイが自分以外の令嬢と噂になっていてもセフォレッタは何も思わなかった。何も思わないどころか、このままアレクセイが不祥事でも起こして婚約破棄になれば良いとすら思っていた。
婚約してから10年となるが、アレクセイとセフォレッタの間には愛情どころか信頼という関係すら育っていない。思い込みが激しく物事を自分の都合の良い方向に考えたがるアレクセイにとって、事あるごとに苦言を呈するセフォレッタはうるさい存在でしかないのだろう。
セフォレッタとしてはアレクセイの視野の狭さや王族としての自覚の足りなさを憂慮し、少しでも彼のため、強いては国のためになればと様々なことを助言をしていたが、それが無駄に高い自尊心を傷付けていたのか、ここ数年は手紙のやり取りすら途絶えている。大事な夜会や式典では同伴者として出席するが、用事が済むなりそそくさ離れていくのが常だった。
そんな調子だったため、アレクセイが男爵令嬢と噂になった時も特に何も思わず素通りしていたのだが――まさか、このような事態になるとは。
嗚咽を零しながら「助けてください」と繰り返すエセルの様子は尋常ではなく、彼女の言い分が全部嘘だとも思えない。
しばらく思案し、セフォレッタはエセルの肩に手を置いた。
「ひとまずお立ちなさい。そんな風に膝を付いたら服が汚れてしまうじゃない」
「セフォレッタ様……」
「それに淑女たる者、人前で泣き顔を見せてはダメよ?」
敢えて朗らかにそう言えば、エセルが僅かに肩の力を抜いた。また緊張は解けないが、張りつめた雰囲気が僅かに緩む。
エセルが立ち上がる間、セフォレッタは露骨にならない程度に彼女の様子を眺めた。
真っ直ぐに伸びた柔らかな亜麻色の髪、涙で潤む翡翠色の瞳、白い肌と愛らしい桃色の唇。淑やかな雰囲気を纏い、庇護欲を誘う儚い風情に「なるほど、こういう令嬢が好みだったのか」と納得する。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません……」
居住まいを正したエセルが申し訳なさそうに謝罪した。先程までの切羽詰まった雰囲気が薄れていたが、それでも表情から切実さが伝わってくる。
セフォレッタはなるべく穏やかに見えるように微笑んで見せた。
「事情は分かったわ。でも、貴女の話だけで動くことはできないの。それはわかってくださる?」
「はい、承知しております。……でも、嘘ではございません。このままではセフォレッタ様にもご迷惑をお掛けすることになってしまいます……!」
「ええ、そうね」
事の真偽はともかく、アレクセイが何かを企んでいるということは確かだろう。
近頃は全く疎遠となっている婚約者の顔を思い出し、セフォレッタは思わず溜息をつきそうになった。アレクセイの尻拭いはいつもセフォレッタの仕事である。
胸の内で散々アレクセイを罵倒しながらも、そんな様子はおくびにも出さず、セフォレッタは不安げな顔をするエセルに「私の方でも調べておくわ」とだけ言い、その場を後にした。
そして、これは面倒なことになりそうだと憂鬱になりながら迎えた翌日、やはり事態は面倒な方向へと転がった。