お嬢さまと豚人間
異世界に訪れた最初の晩、サクラコは国賓としてたいそうなもてなしを受けた。
彼女がお嬢さまの気品と作法を遺憾なく発揮したのは言うまでもない。
王や大臣もたじたじになるような優雅さと丁寧っぷり。
これがただのステレオお嬢さまならばそこで終わったのだが、サクラコは皇木家の長女であり、平成のお嬢さまである。もてなされっぱなしなど、あり得ない。
彼女は丁寧な礼に重ねて、こう切り出した。
「これほどのもてなしを受けて、まことに嬉しゅうございますわ。
はなはだ、ぶしつけではございますが、わたくしもお世話になり続けるだけでは、たいへん心苦しく思います。
何かお返しができれば嬉しいと存じますわ」
ええと、要するに何かお礼をさせてくれと言う話である。
お嬢さまは己の価値を知っている。……王のスケベ心も見抜いていた。
だから自分の心苦しさと、もてなしを嬉しく思うことを素直に押し出し、甘え申し出たのであった。
そうして何らか役割を貰うことで、義を果たし、皇木家の長女としての務めを果たそうと考えたのである。
これが他の来訪者の言う事なら、余計なことをするなと一蹴されたのであろう。
しかし、王さまはスケベであったから、サクラコを「嬉しゅうさせる」ために、何か仕事を探してやると請け負ったのだった。
* * * *
* * * *
翌朝、サクラコは兵士を伴って城下町へと繰り出した。
街は朝から活気に溢れ、露天商が声をあげ商品をアピールし、飲食店では食材や飲料の運び込みが行われている。
異世界の町。
サクラコはあまり詳しいほうではないが、ファンタジー映画やロールプレイングゲームで見るような、ヨーロッパ風の街並み。
立ち並ぶ家々の多くは白い石で組まれたシンプルなつくり。
煉瓦色の屋根の色どりが映え、温かみを感じさせる。街路樹や生垣の緑、水路はよく空を映し、涼しげな青をたたえている。
石のタイルで舗装された広い道には、馬車や荷車の往来も見られる。
車上では綺麗に着飾った貴婦人や紳士が会話に花を咲かせ、当たり前のように腰に剣を差す人や斧を背負う人も行き交う。
少し変わったところではいわゆる魔法の杖とマントを身に着けたものも歩く。だが、剣呑な雰囲気は感じられない。
働く人々はサクラコの世界とは違って、多くは薄汚れた服装をしていたが、魔王が魔物が、という割には、みな一様に明るい顔で仕事に打ち込んでいる。
朝の電車に乗り込む人々の顔のほうが、このみすぼらしい格好に似合っている気がしないでもない。
現代の日本が忘れた、生命と牧歌の融和した景色。懐古と憧れの世界。
街の奏でる音がお嬢さまを弾ませる。
「良いところですわね」
「ありがとうございます」
兵士は恐縮して礼を言った。
サクラコは兵士に案内を頼み、城下町を見て回った。
すると、映像や静止画としてのファンタジーだけでなく、実際の人々の反応や文化もまさにそれだということが分かった。
友人の見せてくれた電子ゲームや、流行の小説や漫画で得た知識。
よくある剣と魔法のファンタジー世界。やはりここは、そういった物語の場であった。
多種多様な人種。
こちらで言うところの洋や肌の色、髪の色の多様さはもちろん、ごくまれではあるが、獣の身体の一部を持った亜人や、魔物に類しそうな生物をペットとして連れ歩ている人もいた。
街の入り口には「ここは城下町だよ」と繰り返す男も居る。
防具屋のおやじはもちろん「装備しなければ意味がないぜ!」だ。
サクラコはそういうゲームを遊んだことは無かったが、こういうお約束があるということくらいは知っていた。
これらを実際に耳にすると、顔の気品を崩さないようにするのに苦労する。
そして、彼女の興味を引いてやまなかったのは「魔法」だ。
ちょっと魔術の使えるものは、道具を使わないで火をおこしたり、転んだ子供のヒザを治療してやったりしていた。
見たところ彼らは魔導士というわけでもなさそうだったが、これらを当たり前のように行っている。
お嬢さまも、自分にもちょびっと位は魔法が使えやしないかと期待を抱いたが、それは、こちらに来てすぐに聞こえた言葉に否定されていた。
どうやら村人Aほどの配役ももらえないのかしらと、うかつにもセンチメンタルを許してしまう。
さらに、彼女はお嬢さまであったから、箸よりも重い物……とまではいかないが、優雅な女騎士のように剣は持てないし、もちろんクワも持てない。
そもそも、やまとなでしこに血なまぐさい荒事や土仕事はご法度である。
特技といえば、琴と華道と茶道をかじってはいたが、これはあくまで「お嬢さまの一環」であり、サクラコは「自分」に付随する技術ではないとも考えていた。
属性と個人を紐付けされたものだと言い張りはしても、やはり彼女にも型にはまらないアイデンティティを求める気持ちはある。
何より、こういったファンタジーの世界で、これらが役に立つこともないだろう。
つまるところ、少し町を見て回っただけで、サクラコは己の領分をわきまえたのであった。
だからお嬢さまは魔王を倒しに行かないし、ハーレムも作らなければオークの村も襲わないし、奴隷を飼ったりもしない。
別段、何かのステータスが限界突破というわけでもない。むしろ魔力がゼロである。
彼女が立派なおんなになるためには、何か別の道を模索する必要があるだろう。
「おや、変わった格好したお嬢ちゃんだな」
サクラコに話しかける男がひとり。
がっしりとした体つきの成人男性。年齢ははっきりしないが、まあ二十代、三十代といったところだろう。
「はじめてお目にかかります」
会釈。
「なんだかお堅いね! 若いんだからもっとはっちゃけていこうよ!」
男は笑うとサクラコの肩に手を掛けようとした。
……が、そこには既に彼女の肩は無かった。
「初対面の者に、そのようになさるかたは、あまりいらっしゃらないようですわ」
サクラコはゆっくりと、冷や水を掛けるように言った。
「あらっ!? 残念……じゃ、他を当たるとしますかね」
男は歯を見せると手をふりふり、人ごみの中へと消えていった。
「今のは城下で有名なスケコマシですね」
兵士がささやく。
「まあ!」
どこの世界にもナンパ者は居るものだ。サクラコはため息を吐いた。
お嬢さまはそういう手合いをかわし慣れていたが、こちらでも変わらぬ男との遭遇は彼女をさらにブルーにした。
街をぶらついていると、別の兵士がこちらに向かってきた。
「サクラコさま、王さまが呼んでおります。何やら頼みたいことがあるとか……」
「取り急ぎ向かいますわ」
彼女の気持ちにようやく赤みがさす。
サクラコは心の中でこっそりガッツポーズをして、見物を切り上げ、王城へと引き返した。
* * * *
* * * *
胸に手を当て、玉座の間に向かうサクラコ。他の者なら駆け出してしまうのだろうが、彼女はあくまでゆっくりと堂々と歩く。
「おはようございます。王さま、ごきげんよろしゅう」
「おお、ごきげんよろしゅう」
にかにかと頬を引き上げる王さま。
「サクラコよ。昨日約束した件じゃが、是非お主にやってもらいたい、うってつけの仕事があるのじゃ」
サクラコは王さまの目を見据え、胸に手を当て神妙にしている。喉から手が出るほど欲しい、役目。
お嬢さまは貰えることになっている物を催促したりはしない。ただ待つだけである。
「……オホン。ええと、ワシの親戚の娘が結婚することになったのじゃ」
照れくさそうな王さま。
「それは、おめでとうございます」
ほほえむサクラコ。
「当然、ワシの親戚ということでそれなりの家の者なのだが、素行に少々問題があっての……。
サクラコよ、お主は随分と礼儀や作法に長けている様子。その娘のところへ行って、指導してやって欲しいのじゃよ」
――少しの間。
「はい……よろこんで!」
弾む声。
これまで、サクラコがお嬢さまということで何か得をした経験はほどんどない。
やはり世間の目は差別的であり、名家のお嬢さまというレッテルが「お高くとまってる」とか、「おつむのほうは軽い」とかいうイメージを招いていた。
信用や信頼よりも、嫌味ややっかみを受けることのほうが多かった。
他者からの、お嬢さまであることへの肯定。
いくら自己否定的な言動は控えるとはいえ、そういった世間の波にもまれてきた彼女の心の中は推して図るべきだろう。
まあ、少々期待とは違う内容ではあったのは確かだ。
魔法の杖でも伝説の剣でも渡されて、魔物をズババーンとやる図が彼女の頭から消し去られる。領分をわきまえていたんじゃなかったのか。
それでもお鉢はお鉢。まわされたらよそうのが道理だ。
* * * *
* * * *
さっそくサクラコは、城下町のはずれにある王さまの親戚の家を訪ねた。
これまた西洋風の立派なお屋敷。庭には様々な植物が花咲かせている。
「まあ、おきれいですわ」
生垣に生えた花の香りに誘われ、顔を近づけようとする。
「あっ! サクラコさん。手を出すと危ないですよ」
兵士が警告する。
「どうしてですの?」
「これ全部、魔物や盗賊避けの魔法食虫植物なんですよ。食べられちゃいますよ」
兵士は生垣、庭の花壇、屋敷に纏わりつくツルなどのひとつひとつを指さした。
「まあ!」
兵士はサクラコが生垣から離れるのを見届けると、屋敷の扉に付いたライオンのノッカーを叩いた。
出迎えたのは齢三十から四十の女性。
身なりはしゃんと整えられており、いかにも貴婦人といった様相だ。
控えめな化粧をしたきれいな顔立ち、髪の毛は長く、頭の上で団子に纏められている。
しかし、見慣れない点がひとつ。
その髪は緑みがかった青、花浅葱色をしている。さすがは異世界といったところだ。
「あら、これはこれは兵士さん。何か御用かしら?」
「こんにちは、セスティアさん。以前、言っていた作法の先生を連れて来ました」
「ソレフガルド陛下からのお使いですのね。前もって言って下されば、おもてなしのひとつもできましたのに」
「いえ、お構いなく、私は彼女を届けたら引き上げる予定ですので」
「では、こちらのかたが?」
セレスティア婦人は袴姿の娘を見やる。婦人は目を皿のように丸くした。
「はじめてお目にかかります。スメラギサクラコともうします」
軽く頭を下げるサクラコ。婦人もつられて頭を下げる。
「これはご丁寧に。“セスティア=ユーイステア”でございます。セスと呼んでくださいまし。わたくし、ユーイステア家の当主を務めております」
婦人はもう一度頭を下げた。
婦人も婦人なりに眼力と知見がある。顔を上げるころには目の皿は消え去っていた。
* * * *
* * * *
応接間で席に着く女性たち。テーブルの上にはお紅茶とおケーキ。
サクラコにとって、こういった形式ばった訪問は慣れたものであったが、普段と勝手の違う世界、それも王の使いということで、多少の緊張があった。
お嬢さまは紅茶が好きだ。自宅でもよく入れて飲んでいる。
紅茶を飲めば、神経が滑らかになる。出されたのが未知の飲料でなかったのはさいわいだった。
「まあ、それじゃあサクラコさんはよその世界からいらしたの?」
「はい。お城でお施しを頂戴するばかりでは、申しわけがなくって」
「お若いのにご立派で。うちの娘にも見習わせたいわ。うちの子ったらふらふらしてばかりで。ユーイステア家の家督だというのに、お行儀のほうもさっぱり」
婦人は横に座る娘にちらと目をやった。
娘は肘をついて客人に頬を見せている。
「家、継がないもん」
「またそんなことを言って」
「やだ!」
娘が紅茶を音を立ててすすり、戻されたカップが受け皿と当たり音を立てた。
このちょっとばかり品の足りない、ふてくされた娘。
名は“ユクシア=ユーイステア”。彼女もまた“お嬢さま”である。
そして、やはり異世界らしい髪色。品のある言いかたをすれば明るい牡丹色。
つまり、元の世界ならばメタルかパンクかという、どぎついピンク。個性的なおぐしの色である。
髪は顎のあたりで、真っ直ぐに切りそろえられている。
そして、品の無い態度とは対照的に、西洋人形のような服に身を包んでいた。
「ユッカはまたそんなことを言って。すでに相手方には返事を出しているのですよ」
「キャンセルよ。キャンセル。会ったことも無い男と結婚するなんて、ムリ」
「名家の娘とはそういうものです」
ピシャリと言う母。
「何よ。ママは恋愛結婚だったでしょ」
やり返す娘。
「ユーイステア家を大きくしたのはわたくしですからね。わたくしがルール。だいたいあなた、この前までは乗り気だったじゃないの。呼び寄せたらすぐに帰ってきたくせして」
「あれは勢いよ」
「だったら、勢いで結婚しておしまいなさい。付き合えばあんがい好き合えるものです」
「私まだ十五よ。ママだってまだまだイケてるじゃない。次代の事を考えるなんて、気が早いわよ。……私はまだまだ遊ぶんだい!」
スプーンを咥えながら話す娘。
「……と、こんな調子でございます。結婚うんぬんを差し置いても、ユッカには女性らしい品位に欠けるところがおおいにあります。これを是非、サクラコさんに矯正して頂きたく」
「ベストを尽くさせていただきますわ」
サクラコはほほえんだ。
「サクラコさんのお歳は十九だそうよ。ユッカ、あなたよりもよっつも上よ。彼女を姉のように見習いなさい」
「はぁーい。よろしくおねがいしますわよ。お姉さま」
――カチリ。
娘の口の中でスプーンと歯が当たる音がした。
結婚。
名家だろうが、庶民だろうが。男だろうが女だろうが。
当然、この異世界においても人生の一大イベントである。
サクラコもまた、名家の娘である。
彼女は未だに男性とのお付き合いを経験していなかったが、やはりそこはとしごろの娘。ユクシア嬢の気持ちが分からないでもない。
自分もそのうち、そういう形で嫁に出されることになるのだろうか。
そういった話は両親からまだ聞こえてこないが、この部分に関しては皇木家の長女としてのプライドを、個人の意思が上回っていた。
「では、わたくしは仕事がありますので。あとはよろしくお願いします」
席を立つセスティア。未だに姿勢を正さない娘を一瞥し、サクラコに頭を下げる。
母が退室するなり、ユクシアはため息をついた。
「家庭教師なんていらないんだけどなあ。……あ、でもお姉さまが要らないってわけじゃないわよ。こっちに戻って来て、ちょうど退屈し始めてたとこだし」
「そうかしら。ユクシアさんは、少々、品位に難がおありのようですけど」
お嬢さまは滅多に相手を非難しないものだ。サクラコはユクシアを好きになれそうもないと思っていた。
「あはは。はっきり言うわね。ユッカでいいわよ」
身を乗り出すユッカ。
「ね、あなたって異世界から来たって本当? そっちの世界の事を聞かせてよ」
「それはかまいませんが、先にきちんとお勉強をなさらないといけませんわ」
頑として譲らないサクラコ。自分に与えられた役目。
「うーん、お堅い! それについては大丈夫よ。素がこうなだけ。私だって、見栄を張らなくちゃいけない場面、けっこう経験してるし。あなたが怒られるようなことにはならないと思うわよ」
そういうとユクシアは、テーブルの上のケーキをフォークで切り分け、口へと運んでみせた。
歯を見せず、口を大きく開けることも無く、ゆったりと。紅茶もカップを必要最低限だけ傾け、音も無く口に含む。
「あら、まあ」
ユクシアの流れるような動作は洗練されていた。
本人の言う通り、それなりに場数を踏んでいるようだ。サクラコのお眼鏡に適うくらいには。
もっとも、サクラコも茶道や華道で作法を習ってはいたが、生来のお嬢さまであったため、彼女自身の動作も誰かに教え込まれたというものではない。
「ね? だから聞かせてよ。面白い事、あるんでしょ?」
サクラコは観念して話し始めた。
もと居た世界の事や日本の生活を。なるべく、お嬢さまである自分の視点と庶民の視点を分けて話すように努めた。
「ふーん? なんだか、どれもこれも堅っ苦しくてタイクツそうね……」
「わたくしたちの世界は、多くのことがらが型に収まっておりますから」
ユクシアは始めのうちはこちら側の話を聞き入っていたが、聞けば聞くほど彼女の興味は薄くなっていったらしい。
そのうちに退屈そうな態度や相槌が飛び出し、時間や規則に縛られて生活する人々の事を「奴隷?」とまで言ってのけた。
「そんなところで生活してるから、こんな風になっちゃうワケね」
再びスプーンを咥えたユクシアは、サクラコを眺めた。
「ねね、外に行きましょうよ」
「外へ?」
「そーそー。外での礼儀作法とか? 教えてよ」
スプーンを口から出し、サクラコにその先を向けた。
「そういったことをなさるのは、よろしくないですわ」
ナプキンで口を拭きながら作法の教師が苦言を呈する。
「おっと、これは失礼いたしました! お姉さま。外へまいりましょう」
はねかえり娘が不敵に笑う。
「……よろしくってよ」
* * * *
* * * *
ユクシアに連れられて、屋敷の外へ出るサクラコ。
「やっぱり、外の空気を吸わなきゃね」
背伸びをするユクシア。
娘たちは生垣を迂回し、屋敷の裏手のほうへと進む。
「どこに向かわれますの?」
「イイトコよ」
ユクシアは歯の隙間で笑った。
生垣からは春の良い香りがする。サクラコは自然と引き寄せられ、うっかり花に触れてしまいそうになる。
「あ、お姉さま? 生垣には触れないほうがいいわよ」
「はい。伺っておりますわ」
「パパの趣味なのよ。パパは植物の研究家でね。ママも時々手伝ってるの。今もふたりはハウスでお仕事中」
「仲がよろしいのですね」
「そーなのよ。未だにイチャイチャしてるのよ! だから、私にお見合い未満の結婚をしろっていうのはちょっと納得がいかないわ」
「そうですの」
気持ちは理解できたが、そっけない返事が出た。
「さ、気分転換よ! 歩こう歩こう!」
サクラコはユクシアが適当な方便を使って外へ出たということは承知だ。
それと、何かを企んでそうなことも。
まあ、その気になればそれなりの作法を披露できることは知っていたし、少々品の無い所さえ直せば問題ない。ユクシアの退屈しのぎに付き合うくらいは悪くないと考えた。
しかし、早々に不安を覚え始めることになる。
ユーイステア邸は町はずれにあるのだ。ユクシアはそこからさらに、ひと気のないほうへと進んでいる。
そのうちに、道は拓かれてはいるものの、草木の生い茂る森のようなところに入ってしまった。
「ユッカさん。ずいぶんと町から離れておりませんこと?」
「そーよ? 町の中なんて、タイクツでしょ。やっぱり外よ、外」
「王さまは魔物がでるとおっしゃいましたわ」
不安を隠しきれないサクラコ。
「出るわね。でも大丈夫。このあたりじゃ、狂暴化した野生生物が関の山よ。犬猫とケンカするようなもんよ」
「まあ。ケンカだなんて」
「さすがお嬢さまね……」
呆れるユクシア。
――ガサリ。
茂みから何かが飛び出す!
「ほら! お姉さま! さっそく魔物が出たわよ」
ユクシアは楽しそうに指をさす。
「にゃおーん!」
中型犬ほどの大きさの猫。トラやライオンではない。猫だ。
「まあ。大きなネコちゃん。でも、なんだか怒っていらっしゃるわ」
困ったように言うサクラコ。
「にゃんにゃん! にゃんにゃん、にゃんにゃんにゃん! にゃうーーん!」
猫は牙をむき、毛を逆立てて吠えたてる。猫の目は妖しい光を放っていた。
「さ、お姉さま! ガツーンとやっつけて! ガツーンと!」
ユクシアはサクラコを猫のほうへ押し出そうとした。
「ユッカさん! やっつけるだなんて。恐ろしいことですわ。それに、ネコちゃんが可哀想ですわ」
「えぇ? あいつは魔物よ。いちおう、ヒトも襲って食べるわよ。……といっても、魔王の瘴気に当てられて狂暴化しただけの猫なんだけどね」
「ではやはり、やっつけてしまうのはよろしくないのではありませんか? 穏便に帰っていただくとか、できませんの?」
「んー……。そうね。あなたの言う通り」
娘は頭を掻くとお嬢さまの代わりに前へ出る。
ユクシアは両手を地面に付き、尻……臀部を高く上げて振った。まるで獲物に飛び掛かる前の猫のようなポーズ。
「わんわんわん! わんわん!」
激しく吠え始めるユクシア。
「あらまあ!」
口を手で覆うお嬢さま。
「にゃ……にゃんにゃん! にゃ…… 「わんわんわんわん! わんっ!」 にゃおおおん……」
猫はユクシアの迫力に負け、しおらしくなって草むらの中へと消えていった。
はて、気のせいだろうか。サクラコは首を傾げた。ユクシアの身体が一瞬、赤く光っていたように見えたのだ。
「あっはっは! 引っ込んでった! ちょーウケる!」
お腹を抱えて笑うユクシア。
「まあ!」
「ま、こんな感じで、この辺の魔物は大したことないのよ。ヘーキヘーキ」
どうだとばかりに胸を張るユッカ。
「……ユッカさん、少々はしたないですわ」
「さようでございますか……」
魔物を退けたふたりは歩き続ける。
「どちらまで行くんですの?」
「んー。考えてないのよね。ちょっと面白いことがあればいいなって思ったんだけど、このあたりじゃ期待するだけ無駄みたいね」
退屈そうにため息をつくユクシア。
「期待? 何を期待なさっているの?」
「んーん。こっちの話」
――ガサリ。ガサガサ。
再び茂みの揺れる音。
「おっ。魔物かな?」
茂みを覗き込むユッカ。
「……なーんだ残念。人間ね」
茂みの中から立ち上がったのは、カゴを背負った男性だった。
「あんた、ここで何してるの?」
「ぼくかい? ぼくは山菜採りだよ。きみってアレだろ。セスティアさんとこの娘さん」
「あら、私って有名なのね」
頬に手を当て身をくねらせる。
「有名さ。城下いちのはねっかえり娘だって」
「まあ」
口に袖するお嬢さま。笑うのは礼儀を欠くので我慢だ。
「ひどいわね! あんたなんて魔物に食べられちゃえばイイのよ!」
ユクシアはこぶしを振り上げる。
「ハハッ! ほら、そういうところだよ」
男は肩を揺らして笑った。……だが、見る見るうちに顔色を失い、笑いからも水気が消えていった。
「お、お助けぇーーー!!」
彼は急に叫び出し、カゴを放り出して走り去ってしまった。
「なによ、急に。何も逃げることないじゃない」
怪訝そうな顔をするユクシア。
「ユッカさんの顔があまりお優しく見えなかったのでしょう」
肩を揺らし続けるサクラコ。
「なによ、お姉さままで!」
ふと、雲が日の光を遮ったのか、サクラコの周囲が暗くなった。
「あら?」
見上げるサクラコ。
「オイ、オンナ。コッチヘ、コイ」
そこにはカタコトで話す男が居た。大の男よりも巨大。
肌の色は群青、原住民の様な出で立ちをしており、顔はイノシシのようである。そして何より、不快感の強い体臭を放っていた。
「あまり芳しくないおかたですわ……きゃあ!」
イノシシ男はサクラコを捕まえると肩に担いだ。
「あら? オークじゃん」
「オイ、チイサイムスメ。オマエモ、コイ。テ、モウカタホウ、アマッテル。モテル」
「ユッカさん。お逃げになってくださいまし。お殿方を呼んできてくださいまし」
オークの肩越しに言うサクラコ。ゆずは色の袴が揺れる。
幼少の頃に習った、「あやしい人が現れたときはどうしますか?」というのを冷静に実行するサクラコ。
――わたくしは教育係。いけすかないところもございますが、ユッカさんにけがをさせるわけにはまいりませんわ。
この巨大なイノシシ男も、さすがに人を担ぎながらは走れないでしょう。大人のお殿方が居れば何とかなさってくださるわ。
対策はばっちり。サクラコはオークに抱えられながら満足げだ。
「はー。あなた、けっこう肝が据わってるわね」
のんびりと構えるユッカ。
「お早くなさったほうがよろしいですわ。ユッカさんまで、かどわかされてします」
「まあ、私ももう捕まってるんだけどね」
いつの間にかもう一匹オークが現れており、すでにユクシアを肩に担いでいた。
「まあ! なんてこと」
両の頬に手を当てるお嬢さま。
「あっはっは!」
ユクシアが大爆笑をする。
オークに運ばれる娘たち。どんどんと森の奥へと分け入っていく。
「ああ。これからわたくしたちは、どうなってしまうのでしょう?」
「そりゃー、乱暴された挙句に食べられるに決まってるわね。あっはっは!」
「なんてことでしょう」
とは言ってみたものの、サクラコは言葉の意味こそ理解できてはいたが、いまいち実感がわかないでいた。
横で笑い続けるユクシアのせいか、それとも単に異世界で訪れる危機に頭が追い付いていないせいなのかは分からないが。
「ねね。お姉さま。こういう時は、お嬢さまだったらどうしたらいいのかしら」
「……? こういう場合ですか? お嬢さまというものは……」
お嬢さまに荒事はご法度だ。焦って解決を図ろうとするのはもちろん、暴れるなどはもってのほか。
然るべき相手に助けを求める場合も、自ら急かすような真似はしない。
自分に落ち度をみとめて初めて「よろしいですか?」「恐れ入りますが……」と静かに声を掛けるのものである。
「なるほど、じゃあつまりこのまま黙って連れ去られてしまえばオッケーなのね?」
「……そうなりますわね?」
首を傾げるサクラコ。何か間違っているような……。
「悲鳴くらいあげたほうが良いんじゃないかしら?」
ユクシアはにやついてサクラコのほうを見る。
「大きな声を出すのは、少々はしたないかと」
「お嬢さまらしい叫びとかないの?」
「えっと……そうですわ」
サクラコは息を吸い、喉を震わせる。
「あーーれーー!」
これぞお嬢さまの悲鳴。サクラコがこれほどの声をあげたのは、中学校の合唱コンクールの時以来である。
「あっはっはっは! おもしれー!」
「オイ! オマエラ! ウルサイゾ! シズカニシテクダサイ!」
注意するオーク。
「“してください”だって! あっはっは!」
爆笑するユッカ、担ぐオークがふらつく。
「ヘンカ? オレ、ガンバッテ、ニンゲンノコトバオボエタ……」
しょげるオーク。
「イノシシさん、お元気を出してくださいまし」
励ますサクラコ。
「ひひひひひ! もうだめ! こいつらおかしい!」
さらにオークを揺らす笑い。
「ンモウ! シズカニシテクダサイ!」
とてもだが、娘が野蛮な亜人に攫われているようには見えない雰囲気。……とはいえ乙女の大ピンチである。
はてさてどうなることやら。
彼女たちはそのままオークの集落へと運ばれて行った。
* * * *
* * * *




