37、面会
大変遅くなりました。
昨夜から降り始めた雪は、翌朝には景色を白一色に塗り替える程に積もっていた。
それでもまだ、降り止む様子もなく、空からは大きな雪が舞い降りてきている。
春菜は、御簾を上げてその様子を見るともなく眺めていた。
足元から這い上ってくるような冷気の中、炭櫃に両手をかざす。
じんわりとした温かさが手のひらに当たり心地良い。
「春菜様」
八菜女の声に現実に引き戻されて、春菜はようやく銀色の世界から視線を外した。
「文が届いております」
八菜女は手にした文を春菜に差し出す。
「八菜女、読んでくれない?」
それをやんわりと手で押し戻しながら春菜がそう言うと、八菜女は少し迷うようにしてから、文に目を落とした。
「誰からの手紙なの?」
この時代の文字は、春菜にはとても文字には見えず、まともに読むことも儘ならない。
幾度か苦戦して、春菜は最近では、読むことを諦めていた。
「大王からでございます」
「大王から?」
何かあったのだろうか、と首を傾げると、すぐに八菜女が文の内容を読み上げた。
「…要するに、顔合わせがあるってこと?」
確認すると、八菜女はこくりと頷いた。
「五日後にあるようですね。葛城皇子と大海人皇子もいらっしゃるようです」
葛城皇子とは、中大兄皇子のことだろう。
確か、以前に一度有間がそのようなことを言っていたのを思い出して、春菜は一人納得した。
「大海人皇子って?」
「葛城皇子も大海人皇子も、大王のご子息です。大海人皇子が葛城皇子の弟君であらせられます」
「中大兄皇子が、天智天皇でしょ…兄弟って天武天皇だっけ?」
遠い歴史の授業を思い出しながら呟く。
天智と天武、名前が似てるのは、兄弟だからだろうか、と授業中にぼんやりと思った記憶がある。
「春菜様?どうかされましたか?」
「ううん。大王の息子さんって、二人だけ?」
「はい。そうです。姫君も一人おられますが、皇子はお二人だけですね」
今の大王が誰なのか、春菜には見当もついていない。
春菜の記憶にある女流天皇は推古天皇くらいのものだから、考えても分からないだろう、と最近は考えることもやめていた。
中学の歴史の授業で習うほど名の残った天皇ではないのかもしれないが、それでもあの大王は天智天皇と天武天皇と言う、千年以上後の世にまで名の残る重要人物の母親と言うことになる。
「有間は?来ないのかな?」
それに八菜女は困ったように笑った。
「そうですね…有間皇子は微妙なお立場なので…」
「そっか…そうだったね」
それを言えば、春菜も微妙な立場なのだろうが、八菜女はそこまで言及することなく柔らかく微笑んだ。
乾いた音が、からからと耳を打った。
有間は、風もないのに揺れて音を奏でる拍子木に目を止めると、急いで人払いを頼んだ。
数日前に鳴子を吊り下げるようにしてから、初めてこれが音を奏でた。
微かな緊張を覚えながら、部屋の奥に進む。
腰を下ろすと、どこからか風に舞うようにして、文が手の中に飛び込んできた。
どこから現れたのかも判然としないそれに驚くも、有間はゆっくりとそれを開いた。
したためられていた内容に、微かに眉をひそめてから、有間は小さく溜息をついた。
大王が彼女の皇子達と共に春菜と会おうとしていることは、有間も知っていた。
けれど、これほど早く大王が動くことまでは予想していなかった。
当然のように有間に声がかけられることはないが、そこまで有間は期待してはいなかった。
「返事を書きたい。よろしいか?」
どこに向かって話しをしたら良いのか分からず、結局文に目を落としながらそう言う。
間を置かずに、また鳴子が乾いた音を鳴らした。
是の時には、一度、否の時には間を空けて三度鳴らす、という取り決めになっていた。
続く音がないのを確認して、有間は急いで紙に筆を走らせた。
普通、女人との文のやり取りと言えば、趣向を凝らすものだが、出来る限り簡素に、必要なことのみをしたためるように心がけた。
八菜女当たりが目にすれば、あまりの赴きのなさに呆れるような文だった。
春菜が、文に対して特別な思い入れがないことは、有間も理解していたが、これほど簡素な文に抵抗がない訳ではない。
しかし、余計な装飾を入れたところで、春菜は特に気に留めもしないのだろうことも分かっていたので、あえて華美に飾ろうとは思えなかった。
書いた内容を確認して、文机の上に文をそっと置く。
「よろしくお願いいたします」
それに反応するかのように、鳴子がからからと音を奏で、ふと視線を落とすと、もう文はなかった。
見えもしない神を見送るように、ぼんやりと外を見つめてから、有間はゆっくりと立ち上がった。
春菜に関することは、気掛かりなことがあり過ぎる程にある。
心穏やかに聞くことの出来ない内容のものもあった。
有間の力は朝廷では諸刃の剣だ。
権力にしろ、有間のみに許された力にしろ、朝廷で影響力を得るために使えば使うほど、有間の立場は危うくなる。
有間の基盤が支えることの出来る限界以上の力を有間は手にしていたからだ。
後ろ盾がない状態で、力を使えば、それだけ自滅を早める。
それが分からないほどに有間は愚かではなかった。
有間に出来ることは限られていたが、春菜の意に沿わない結果を招くことはしたくない。
春菜をここに招いたのは有間自身だ。
有間にはその責任がある。
「春菜が望むのならば、それも良いかもしれないが…」
ぽつりと呟いて、有間は頭を振って、余計な思いを振り払った。
つい先日大王が有間に告げた言葉が脳裏をよぎる。
それを決めるのは、春菜自身だ。
大王でも有間でもない。
春菜が女であり、この世界に居続ける限り、それは避けて通ることの出来ないものなのかもしれない。
顔合わせの席は、非公式のものということだった。
それ程構えずとも良い、と大王からの文には書いてあったそうだが、それでも春菜にとってはゆるりとした気分で臨めるものではなかった。
あまり人見知りをする性質ではなかったが、皇族だ、と思うと何を話したものか、考えつかない。
そもそも、春菜にはこの世界の一般常識が大きく欠落している。
時彦との生活で、少しは分かってきたように思っていたが、貴族の生活と退魔師の生活では相違点よりも共通点を見つける方が難しいかもしれない。
挨拶も出来ず、立ち居振る舞いも出来ずでは、ゆるりとしろ、と言われてもそうそう出来るものではない。
いつもより、念入りに結い上げられた髪に、いつもよりも綺麗だがさらに動き辛い着物。
とにかく、普通に振舞うだけで精いっぱいな状態だった。
「春菜」
几帳を回り込むようにして、部屋に入ると、一番奥に腰を下ろしていた大王が待ち構えていたように声をかけた。
「良う来た」
空いている場所に春菜もゆっくりと腰を下ろす。
部屋にいるのは春菜を除いて四人。
知っている顔は大王のみだ。
「これが春菜じゃ。噂は聞いておろう」
大王は、自分の斜め前右と左に座る二人に向かって春菜を紹介する。
左側の男が、軽く目礼をするのに、春菜も小さく答えた。
右側の男は憮然とした表情で、眉一つ動かさず、じろりと春菜を見ただけだった。
「春菜、これは上の息子の葛城じゃ」
言って、大王は無愛想な男を指す。
改めて葛城皇子を見ると、皇子も春菜を見ていたのか、一瞬だけ視線が交わった。
鋭い視線に、思わず目線を外すと、それに合わせたかのように、大王がもう一人の男を紹介した。
「これは次の息子の大海人」
大海人皇子は、人好きのする笑みを浮かべて春菜に向かって軽く頷く。
少しだけ安堵して、春菜もまた微笑み返した。
「これは、健じゃ。そこの葛城の息子で、八つになる。のう、健皇子」
大王のすぐ隣にちょこんと座る男の子は、どこか場違いな印象を受ける。
葛城皇子の息子と言うが、武人然とした父親にはあまり似ていないようだった。
八つにしては少しばかり体が小さく、表情も顔もあどけなさが抜けずに幼い。
健皇子は、春菜のことが分かっているのかいないのか、落ち着かない様子で、大王の顔を見ている。
綺麗な顔をした子供だった。
日に当たっていないのか、真っ白な顔で、女の子かと見まごうほど愛らしい顔立ちをしている。
肢体は細すぎるほどに細く、儚げな印象を人に与える。
「それ程気負うこともない。童もいる。内輪の席だと思うてくれて良い」
あくまでにこやかにそう告げると、大王は健皇子の顔を覗き込んだ。
健皇子はそれに安心したように、笑顔を浮かべる。
その笑顔に、春菜まで緊張を解かれた。
「春菜は、後の世から来たと聞いた」
低い声でそう問いかけてきたのは、葛城皇子だった。
無骨な印象を受ける彼は、体躯も大きく武人のように見える。
いかめしい顔のまま、葛城皇子はじっと春菜を探るように見て来る。
年の頃は三十、といったところだろうか。
「後の世とは一体どのようなものだ?」
愛想の欠片もないような憮然とした表情とは裏腹に、ただ単純に好奇心から出た問いのようだった。
それに大王も大海人皇子も身を乗り出す。
「それは、私も気になる」
大海人皇子にもそう問われ、春菜は少し考えた。
どのようなものだ、と聞かれて一口で説明出来るものではない。
そもそも何から話したら良いのかも分からない。
「そう、ですね。私はこれから千五百年ほど後の時代から来たことになります」
「千五百とな」
大王は息を飲んでそう繰り返す。
「はい。こことは多くのことが違います」
違い過ぎて、どこをどう説明したものか分からないほどだ。
「町の様子も、人々の様子も、服装もとても違います」
そう、とても違うのだ。
豊かで、便利で、安穏と自分の居場所を守っていた世界。
生命の輝きには乏しくとも、温かな愛情が春菜を包んでいた。
「本当に、とても…」
何をどう説明したものか、と迷って言葉を探していたが、生まれ育った場所を思い出すにつれ、違った理由で言葉が出なくなっていく。
まだ、郷愁に浸りながら生まれ育った世界について話すには、春菜の傷は新しかった。
鮮明に思い出すに連れ、寂しさと心細さが、ちくちくと胸を突き刺す。
とうとう、何もしゃべれなくなってしまった春菜を見て、大海人皇子が優しく微笑んだ。
「無理をせずとも良い。まだ思いだすのは辛いだろう。無神経なことを聞いてしまったかもしれない。すまない」
「いえ、無神経だなんて、そんな…」
そもそも、問いを発したのは、葛城皇子だ。
大海人皇子が謝ることではない。
「少し、思いだすと懐かしくて、切なくなってしまって…」
「無理に話さずとも良い」
大海人皇子は、安心させるように、ふわりと笑みを浮かべた。




