第1話:5歳の決意
転生から、5年。
俺は、ようやく、この世界の機構を、把握した。
そして——理解した。
ここは、地球より、深く、腐っている。
※セリフの前の頭文字は、話者を示す識別子です。
(ディ)=ディアル / (エ)=エルマー
——目を覚ました時、俺は子供だった。
正確には、5年前にそう気付いた。
最初の数年は、肉体が思考に追従しなかった。
言葉を発することも、立ち上がることもできなかった。
寝台の中で、天井の木目を凝視しながら、ただ思考だけを巡らせていた。
——転生した。
——それ以外に、合理的説明は、皆無。
5歳になった今、ようやく身体が意思に応答し始めた。
俺は孤児院の隅、古びた木の椅子に座って、本を開いていた。
──────────
5年。
5年は、長い。
赤ん坊として、思考だけを保ちながら過ごした5年。
最初の1年は、地獄だった。
言語を発する機能を持たず。
意思の伝達は、不可能。
オムツを替えさせるための手段は、原始的な啼泣のみ。
38歳の男が、5歳の稚児らに混じり、汚物にまみれて呼吸を続ける日々。
それが、最初の1年だった。
2年目から、俺は、思惟の体系化に着手した。
前世における知見を、脳内で再構築する作業に没頭した。
戦略コンサルタントとして培った膨大な情報を、子供の脳髄の中で、秩序ある構造へと組み直した。
3年目には、文字の習得に着手した。
日本語とも英語とも異なる、見たこともない文字体系。
それでも、子供の脳は、言語の吸収力が尋常ならざる速度を持つ。
俺は転生という稀有な機会を、最大限に活用した。
4年目には、孤児院の主——エルマーの蔵書を、独力で読破できるようになっていた。
5歳児が古典を読む光景は、明らかに尋常ではなかった。
だが、俺は秘匿しなかった。
秘匿したところで、エルマーの眼識は看破していた。
そして、5年目の今——
俺は、この世界の機構を、ほぼ把握していた。
──────────
ここは、異世界だ。
中世ヨーロッパに似た、しかし異なる世界。
魔法が実在し、複数の種族が暮らし、神を中心とした宗教が統治する世界。
その最下層、商業都市メルカティアのスラム街。
それが、俺が転生してきた場所だった。
教会と呼ばれる巨大な宗教権力が、大陸全土に絶対的支配を敷いている。
教皇を頂点とする神権政治体制。
教義に反する者は、即座に異端と断罪され、処刑台へと送られる。
種族間には、絶対的な階層と差別が存在する。
俺は、この5年間で、それらを学び取った。
——この世界の構造は、根底から腐敗している。
それが、俺の結論だった。
前世の地球も、決して綺麗な世界ではなかった。
腐敗、不正、権力闘争、戦争、貧困。
あらゆる醜悪が、地球にも存在した。
だが、この世界は、それを凌駕する。
地球には、少なくとも、「平等」という建前があった。
「人権」という概念があった。
形骸化していたとしても、目指すべき理念があった。
この世界には、それすら、ない。
教会は人間至上主義を公然と教義化し、他種族を「劣等な存在」と教えている。
スラムの民は、人間としての尊厳すら剥奪されている。
そして、誰もが、それを当然のこととして甘受している。
——これが、現実か。
俺は、本を閉じた。
──────────
孤児院の中央では、十数人の子供たちが騒いでいた。
俺と同じ、5歳から10歳ほどの子供たち。
親を知らず、家を知らず、ただこの孤児院で育った者たち。
俺はその喧騒から、距離を置いていた。
(子A)「あいつ、また本読んでる」
(子B)「変な子だよね」
(子C)「話しかけても無視するし」
子供たちの声が、曖昧に耳に届く。
正しい認識だ、と俺は思った。
俺は「変な子」だ。
5歳の子供が、こんな本を読んでいいわけがない。
5年間、俺は、誰の名前も記憶しなかった。
名前を覚える意義が、皆無だったからだ。
明日にも、誰かが、消失するかもしれない。
病気、事故、人さらい、餓死。
スラムの孤児院では、子供が消えるのは、稀有な事象ではなかった。
だから、俺は、距離を置いてきた。
認識しなければ、喪失しても、痛まない。
——前世と、同一だ。
俺は、苦笑した。
前世でも、誰かと深く関わることを、回避してきた。
仕事仲間。利害関係者。取引相手。
そういう「役割」としての関係しか、構築しなかった。
喪失するのが、怖かったから。
そのくせ、組織のために、命まで賭した。
そして、組織に背反されて、殺された。
——愚かな男だった。
俺は、自分のことを、そう思う。
──────────
(エ)「お前さん」
声がした。
顔を上げると、エルマーが立っていた。
孤児院の主。
60を過ぎた、白髪の老人。
細身で、いつも古い修道服のような服を着ている。
指先には、消えないインクの染み。
俺は、この老人のことを、よく観察していた。
スラムの孤児院を運営する人物としては、何かが、乖離していた。
動き、目線、言葉遣い——どれも、「ただの慈善家」のものではない。
だが、それが具体的に何なのか、俺には、まだ、判別できなかった。
ただ、エルマーの灰色の眼は、いつも、深く沈んでいた。
何かを、見ているような眼。
何かを、思い出しているような眼。
そして、その老人もまた、俺を観察していた。
俺の異常さに、気付いていた。
それでも、彼は、誰にも言わなかった。
俺を、教会に売却することもなかった。
ただ、見守っていた。
——なぜ。
それが、俺の中の、最大の疑問だった。
──────────
(エ)「儂の隣に座らんか」
エルマーは、孤児院の窓際にある小さな机に向かい、椅子を二つ並べた。
俺は、本を閉じて、立ち上がった。
そして、その隣に腰掛けた。
(エ)「その本、面白いか」
(ディ)「……普通だ」
(エ)「5歳の答えではないな」
(ディ)「……」
エルマーは小さく笑った。
責めるような笑いではなかった。
むしろ、何かを確認したような笑みだった。
(エ)「お前さん、ここに来て、何年になる」
(ディ)「5年だ」
(エ)「ふむ。儂が拾った時、お前さんは生まれて数日の赤子だった」
エルマーが、窓の外を見た。
(エ)「メルカティアの裏路地に、生まれたばかりの赤子が捨てられていた。
布にくるまれて、石畳の上に。
寒い夜だった。普通なら、朝までもたない」
(ディ)「……」
(エ)「だが、お前さんは、生きていた。
泣きもせず、ただ、儂を見上げていた。
赤子の目とは、思えなかった」
エルマーは、俺に視線を戻した。
灰色の眼が、俺を凝視していた。
(エ)「あの夜から、儂は思っていた。
この子は、ただの子ではない、と」
俺は答えなかった。
エルマーが何を察知しているのか、俺には分からなかった。
ただ、この老人は、俺の異常さに気付いている。
そして、それを誰にも言わずに、5年間、見守ってきた。
(エ)「お前さん、名前はあったか」
(ディ)「ない」
(エ)「家名は」
俺は、首を振った。
エルマーは、しばらく、考えるように、俺を見ていた。
(エ)「『ディアル』ではどうじゃ」
俺は老人を見た。
古い言葉のような響きだった。
エルマーが、なぜその名前を選んだのか、彼は語らなかった。
——ディアル。
その音が、俺の中で、何かと、わずかに共鳴した。
理由は、不明だった。
ただ、悪い響きでは、なかった。
俺は、口の中で、もう一度、その名前を呼んでみた。
(ディ)「ディアル」
——前世の俺の名は、藤堂公誓、だった。
その名前を、頭の中で、想起しようとした、その瞬間——
ズキ、と。
頭の奥が、痛んだ。
(ディ)「……っ」
俺は、思わず、額を押さえた。
(エ)「お前さん、大丈夫か」
エルマーが、首を傾げた。
(ディ)「……ああ」
短く答えた。
頭の痛覚は、すぐに引いた。
だが、痛みの後に、何かが、残っていた。
ひ、と。
その音が、頭の奥で、響いていた。
(ディ)「ひ……」
俺は、無意識に、声を漏らした。
そして、霧の向こうに、誰かの影が、見えた。
小さな、誰かの影。
——あの子は、誰だ。
俺は、想起しようとした。
だが、思い出せなかった。
霧の向こうに、何かがある。
小さな手の感触。
柔らかい髪の匂い。
玄関で待っている、満面の笑み。
なのに——名前が、出てこない。
俺の異常な記憶力をもってしても、そこだけが——破損している。
俺の中で、唯一、欠けている記憶。
(エ)「お前さん」
エルマーの声が、俺を引き戻した。
(ディ)「……ああ、なんでもない」
俺は、首を振った。
(ディ)「ディアル」
俺は、もう一度、その名を、口に出した。
悪くなかった。
(ディ)「家名は」
俺は、聞いた。
エルマーは、首を振った。
(エ)「お前さんは、まだ、家名を持たんでいい」
(ディ)「なぜだ」
(エ)「家名を持つということは、それだけで、誰かの目に留まるということじゃ」
(ディ)「……」
(エ)「スラムの孤児が、家名を名乗る。
それを聞きつけた貴族の機嫌を損ねれば、お前さんは、明日、首を切られる」
——なるほど。
この世界では、家名は、特権の証だった。
貴族と、認められた市民階級にしか、許可されない。
スラムの孤児が名乗ることは、許されない。
(エ)「お前さんが、いつか、自分の家名を、名乗る日が来るかもしれん。
だが、それは、今ではない。
今のお前さんには、『ディアル』、それだけで十分じゃ」
エルマーの灰色の眼が、深く沈んだ。
それが、俺の異世界での名前だった。
家名のない、ただの孤児の名前だった。
──────────
その日、俺は孤児院を出て、街を歩いた。
エルマーは何も言わなかった。
5歳の子供を一人で外に出すなど、普通ならありえない。
だが、エルマーは、俺がただの子供ではないことを認識している。
だから、制止しなかった。
メルカティアのスラム街。
俺はこの5年間、孤児院の窓からしか、この街を見ていなかった。
子供の身体では、外を歩くのも危険だった。
でも、もう、そんなことは言っていられない。
街は、想像していた通りだった。
いや——想像を凌駕していた。
崩れかけた石造りの建物。
泥と汚物の混じった路地。
痩せた野良犬と、それを蹴る大人。
路上で物乞いをする、俺と同じくらいの年齢の子供。
見て見ぬふりをして通り過ぎる、上等な服を着た商人。
腐臭と、生活の音と、暴力の気配。
そして、教会の影は、ここには来ない。
——「神に見捨てられた地」。
エルマーが、いつかそう呟いていた。
教会は、メルカティアの中心部までしか、その手を伸ばさない。
スラムは、教会にとって「見えない場所」だった。
だから、ここでは何でも起きる。
人身売買も、奴隷取引も、暗殺も、すべて。
俺は、その光景を、冷徹に観察していた。
——前世なら、この光景を見て、何を思っただろう。
きっと、義憤に駆られただろう。
社会の不正を許さなかった俺は、この街の現状を見て、立ち上がろうとしただろう。
そして、圧殺されただろう。
前世と、同様に。
——「正しさは、正しいだけでは守れない」
それが、俺が学んだ教訓だった。
ならば、どうする。
俺は、戦略コンサルタントとして培った思考を、ゆっくりと展開させた。
現状認識。
俺の現在の立場は、5歳の孤児に過ぎない。
保有する資源は、前世から継承した知識と、己の頭脳。それのみ。
家族、後ろ盾、金、武力——いずれも、皆無。
だが、俺は、ここから始めるしかない。
資源。
・前世の戦略・経営・歴史・科学技術の知識
・常人の数倍の処理速度を持つ思考力
・何十年もの猶予
・5年間の観察の蓄積
制約条件。
・5歳の身体(物理的に脆弱)
・後ろ盾なし
・資金なし
・家名なし(動けば目立つ)
機会。
・教会の影響力が希薄な領域からの起点
・エルマーという、何かを知っている老人の存在
目標。
この街の腐敗を浄化する——いや、否。
それでは、また抹殺される。
前世と、同様の轍を踏むだけだ。
正解は——
——この世界そのものを、変える。
俺は、口の中で、その言葉を転がした。
規模が大きすぎる。
普通なら、嘲笑される発想だ。
だが、俺には、時間がある。
5歳の身体。
これから、何十年もある。
知識もある。
5年間で蓄積した、この世界に関する観察も。
——足りない要素は、これから、揃えていけばいい。
──────────
路地の角を曲がった、その時だった。
(少女)「やめてっ……!」
少女の悲鳴が、聞こえた。
俺は足を止めた。
声の方向を見る。
路地の奥、ゴミの山の陰で、何かが起きている。
俺は近づいた。
慎重に、足音を立てずに。
そこにいたのは、大柄な男と、5歳ほどの少女だった。
少女は地面に倒れ、男はその腕を掴んでいた。
少女の服は、すでに半分破れていた。
(男)「うるせぇな、おとなしくしてりゃ、すぐに終わる」
(少女)「いやっ、いやだぁ……!」
——ああ。
俺の中で、何かが、ぞわりと音を立てた。
——だが、待て。
俺は自分を抑制した。
5歳の身体で、大柄な男に勝るわけがない。
ここで突入したら、俺も少女も、終わりだ。
冷静に。
論理的に。
俺は、男を観察した。
体格は大柄だが、視線が定まらない。
酩酊状態と思しき酒精の臭気。
単独行動。
共謀者の気配は皆無。
そして、おそらく——スラムの中でも、底辺の連中だ。
つまり、こいつは、「失うものが何もない」と見せかけて、実は「失いたくないもの」がある。
スラムでの居場所、わずかな金、明日の酒。
俺は、ゆっくりと、男に近づいた。
(ディ)「おじさん」
俺の声に、男が振り返った。
5歳の子供が、一人で立っている。
男は、俺を見て、笑った。
(男)「なんだ、ガキか。
失せろ」
(ディ)「失せない」
俺は、淡々と続けた。
(ディ)「あんた、それ、やめた方がいい」
(男)「ぁ?」
(ディ)「俺、エルマーさんの孤児院の子供だ。
あの子も、たぶん、孤児院の子供だ」
(男)「だから何だ」
(ディ)「エルマーさんは、教会の元神官だ。
今は引退してるが、教会には、まだ顔が利く」
——虚偽だった。
エルマーが教会の人間だったかどうか、俺はまだ知らない。
ただ、彼の所作と教養から、その蓋然性が高い、と推定しているだけだ。
だが、男には、その虚偽を看破する知性がない。
俺は、それに賭した。
(ディ)「あの子に何かあったら、エルマーさんが教会に通報する。
教会の聖騎士団が、あんたを探すことになる。
スラムの人間一人、消すのは容易だ。
あんた、明日には、ここに居場所がない」
男は、俺を見ていた。
その目に、わずかな動揺が生じた。
(男)「……ガキの分際で」
(ディ)「ガキの分際だ」
俺は、男の双眸を、微動だにせず凝視した。
(ディ)「だが、虚偽ではない」
数秒の沈黙。
男の目が、わずかに、揺らいだ。
何かに、気圧されたようだった。
男自身も、なぜ自分が怯んだのか、理解できていない様子だった。
ただ、5歳の子供と、目を合わせ続けることが、できなかった。
(男)「……クソが」
男は舌打ちをして、少女の腕を放した。
そして、路地の奥へと去っていった。
俺は、男が完全に視界から消えるまで、動かなかった。
背中が、わずかに震えていた。
5歳の身体は、恐怖を完全には制御できない。
それでも、俺は、攻略した。
論理で、攻略した。
——いや。
俺は、自分の手のひらを、見た。
論理だけ、ではなかった気がする。
最後の瞬間、何かが、俺の中で、わずかに動いた。
胸の奥で、温かい何かが、揺らめいた。
そして、男が、それを、感知した。
——錯覚、だろうか。
俺は、首を振った。
今は、考えても、解は出ない。
──────────
少女は、地面に座り込んで、震えていた。
俺は、彼女に近づいた。
地面に膝をつき、彼女の目線に合わせた。
(ディ)「もう、大丈夫だ」
少女は、俺を見上げた。
怯えた目。
泣きそうな顔。
俺と同じくらいの年齢の、痩せた少女。
(少女)「あ、ありがとう……」
(ディ)「……」
俺は、何を言えばいいのか、分からなかった。
ただ、少女の頭に手を置いた。
ぎこちない、慣れない仕草。
でも、少女は、その手の下で、安心したように涙を流した。
(少女)「お、おにいちゃん……」
(ディ)「……」
俺は、何も答えなかった。
ただ、少女が泣き止むまで、その場に膝をついていた。
──────────
少女が落ち着いてから、俺は彼女を孤児院まで送った。
エルマーが、玄関で待っていた。
少女の様子を見て、すべてを察したようだった。
彼は、少女を別の女性に預けると、俺の方を見た。
そして、つぶやいた。
(エ)「やはり、お前さんか」
俺は、答えなかった。
エルマーは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、俺の頭に、皺だらけの手を置いた。
その手は、温かかった。
──────────
その夜。
俺は寝床に入って、天井を見上げていた。
5歳の身体。
誰の力も、借りられない身体。
だが、俺の中には、5年間、蓄積してきた知識がある。
そして、この世界には——魔法がある。
——俺も、何か、使えるんだろうか。
ふと、そう思った。
根拠は、なかった。
ただ、なぜか、そんな気がした。
——いつか、確認する日が来る。
俺は、目を閉じた。
路地裏で震えていた、あの少女の顔が、頭をよぎった。
痩せた身体。
怯えた目。
俺の手の下で泣いた、あの感触。
——もう、誰一人。
——こんな思いは、させない。
それが、ディアルの、最初の誓いだった。
その誓いが、後にどれほどの代償を生むことになるのか。
彼は、まだ、知らない。
第1話、お読みいただきありがとうございます。
5年の沈黙を経て、ディアルがようやく動き出しました。
そして、彼に名前が、与えられました。
頭の奥に響いた「ひ」の音。
霧の向こうの、小さな影。
それが何なのか、彼自身、まだ気付いていません。
胸の奥で、揺らめいた、温かい何か。
路地裏の男が、無自覚に感知した、それ。
彼の中に、確かに、何かが、宿っています。
少しずつ、彼の物語を、紡いでいきます。
ブクマ・評価・感想、いただけたら励みになります。
次回もよろしくお願いします。
ーーーーー
氷月とおる




