第7話 毒霧の谷と、思い出の楔
鉱山都市を抜ける最短ルート、「迷いの谷」。
その名の通り、視界を遮る乳白色の霧が谷底から湧き上がり、腐った卵のような硫黄臭があたりに充満していた。
「……ツイてねぇな。今日は特に濃い」
ディランが顔をしかめて、マントで口元を覆った。
「引き返しますか?」
「無理だ。後ろからネズミどもが来てる」
彼の視線の先、遥か後方の崖上に、キラリと光るものが見えた。
王宮騎士の鎧の反射だ。第2王子が差し向けた私兵たちが、執拗に食らいついてきている。
進むも地獄、戻るも地獄。
だが、この霧はただの水蒸気ではない。肌を刺すようなピリピリとした刺激。酸性の毒霧だ。
「結界を張る。マリー、離れるな」
ディランが片手で印を結ぶと、淡い光のドームが私たちを包んだ。
霧が弾かれる音がする。けれど、ディランの顔色は優れない。額に脂汗が滲み、呼吸が浅い。
魔法による防御は、術者の精神力を削る。ましてやこの濃度の毒霧を弾き続けるのは、Sランク冒険者といえども負担が大きい。
「……乗れ。走るぞ」
彼は私の前に背中を向けた。
「えっ、でも」
「お前の足じゃ間に合わん。俺の背中なら、結界の範囲も最小限で済む」
反論の余地はなかった。私は彼の背中にしがみつく。
硬い鎧の感触と、その下にある熱い体温。
ディランが地面を蹴ると、景色が流れるように後退していった。
だが、谷の中腹に差し掛かった頃、結界の光が明滅し始めた。
「くっ……!」
ディランが膝をつく。
霧の酸が予想以上に強く、結界を溶かそうとしているのだ。
後方では、私兵たちが最新式の「魔導マスク」をつけて追ってきている。彼らの余裕そうな足取りが見えた。
「ディラン様、私を下ろしてください」
「馬鹿言うな……!」
「違います。戦うわけじゃありません。料理をするんです」
私は強引に背中から飛び降りると、岩場のくぼみに駆け寄った。
道具帯から取り出したのは、第3話で彼が「もう使えない」と嘆いていた、あの聖剣だ。
白銀に輝くミスリルと竜骨の合金。酸にも腐食しない最強の素材。
「これを借ります!」
私は聖剣を、岩の割れ目に迷いなく突き刺した。
ガキン! という澄んだ音が谷に響く。
そして、荷物袋から取り出したのは、乾燥させた「解毒草」の束だ。
剣を支柱(楔)にして、その上にハーブの束を山盛りにし、着火石で火を放つ。
「風下へ!」
モクモクと立ち上る白い煙。
それは毒霧とは違う、香ばしく清涼な香りを含んでいた。
煙が風に乗って谷間を流れ落ちていく。
酸性の霧と、アルカリ性の薬草の煙が接触し――中和反応が起きた。
ジュワワワワ……という音と共に、目の前の霧が嘘のように晴れていく。
「……すげぇ。霧が消えた」
ディランが目を見開く。
それだけではない。煙は後方へも流れていき、追っ手の私兵たちを飲み込んだ。
彼らの高性能マスクは「毒」は防げても、「煙の粒子(煤)」までは防げない。フィルターが一瞬で目詰まりを起こし、呼吸困難に陥った彼らが次々と膝をついていくのが見えた。
「今のうちに!」
私たちは視界の開けた岩場を駆け抜けた。
安全な高台にたどり着いた頃には、追っ手の姿は完全に見えなくなっていた。
私は岩に突き刺さったままの聖剣を回収し、煤を拭き取った。
傷一つない。さすがは伝説の剣だ。
「……悪かったな。俺が不甲斐ないばかりに」
ディランが肩で息をしながら、悔しげに呟く。
「何言ってるんですか。貴方の剣があったから、楔が打てたんですよ」
私は剣を鞘に納めて、彼に返した。
「それに……背中、温かかったです」
「……重くはなかったか?」
「失礼な。淑女に対して」
「……装備よりは軽い。もっと食え」
彼はぶっきらぼうに言って、顔を背けた。
その耳が赤いのを見て、私は小さく笑う。
谷を抜けた先には、青空が広がっていた。
湿った服が風に乾いていく心地よさに浸っていると、空からヒュオッという風切り音が聞こえた。
王家の紋章が入った一羽の鷹が、私たちの足元に革筒を落として飛び去っていく。
「……手紙か?」
ディランが拾い上げようとするのを、私は制した。
革筒には、見覚えのある封蝋。
第2王子アレクからの、直接のメッセージだ。
嫌な予感が、背筋を冷たく撫で上げていった。




