第2話「殺し屋は聖女の嘘を聴く」
鐘が三度鳴った。
王立大聖堂の高い天井を震わせる、荘厳な音だった。
けれどサフィールには、それどころではなかった。
目の前にいる男。
カイン。
名を捨て、心拍すら読ませない殺し屋。
彼はまだ、帰っていない。
「……そこ、退いていただけます?」
「嫌だ」
「聖女に対して、随分と横柄ですね」
「お前は聖女ではない」
「まあ」
サフィールは笑った。
こういうとき、聖女らしく微笑むのは得意だった。
口角を二度ほど上げ、目元を柔らかくする。
相手に安心感を与える、神殿仕込みの笑顔。
ただし。
神殿仕込みなのは笑顔だけだ。
「では、何だと思います?」
「嘘つき」
「正解です」
即答した。
カインの眉が、ごく僅かに動く。
「……否定しないのか」
「嘘をつくことと、嘘つきであることは別でしょう?」
「同じだ」
「では、あなたは殺し屋だから、人を殺すことしかできない人間なのですか?」
「違う」
「でしょう?」
サフィールは椅子に座り直した。
先ほど首に触れられた指の感触が、まだ残っている。
細く、硬い指だった。
剣を握る者とも、貴族の書類仕事をする者とも違う。
人を殺すために必要な筋肉だけが、異様なほど無駄なく鍛えられている。
けれど。
それ以上に気になることがある。
心音だ。
サフィールは耳を澄ませた。
鼓膜の奥に意識を集中させる。
呼吸。
衣擦れ。
足の位置。
筋肉の緊張。
そして――心臓。
普通なら、聞こえる。
ドクン。
ドクン。
人間なら誰でも持っている、もっとも誤魔化しにくい音。
恐怖を感じれば速くなる。
怒れば強くなる。
嘘をつけば、呼吸と一緒に僅かに乱れる。
恋をすれば、本人より先に心臓が浮つく。
だからサフィールは、人間の言葉より心臓を信じてきた。
けれど。
カインには、それがない。
正確には――
あるのに、読めない。
「……おかしい」
「何がだ」
「あなたの心臓です」
「動いている」
「そういう話ではありません」
サフィールは目を細めた。
「音が、均一すぎるんです」
「そうか」
「人間の心臓は、そんなに綺麗じゃありません」
「……」
「怖がったり、喜んだり、緊張したり。本人が意識していなくても、必ず揺らぐ。けれどあなたには、それがない」
「訓練した」
「心臓を?」
「そうだ」
冗談ではないらしい。
サフィールは、初めて少しだけ笑顔を崩した。
「そんな訓練、聞いたことがありません」
「聞かせる必要がなかった」
「なるほど」
妙に納得できてしまう。
殺し屋。
人を殺す仕事を続けるなら、感情は邪魔になる。
恐怖も。
罪悪感も。
躊躇も。
殺す瞬間に心臓が速くなれば、その僅かな変化すら相手に読まれる。
ならば、心臓そのものを殺してしまえばいい。
そんな狂った発想に辿り着いた人間が、この世に一人くらいいても不思議ではない。
「では、質問を変えましょう」
サフィールは立ち上がった。
「なぜ私を殺しに来たのですか?」
「依頼だからだ」
「誰から?」
「言えない」
「報酬は?」
「金ではない」
「では?」
「知りたいだけだ」
カインは言った。
「お前が、本物なのか」
「本物?」
「神に選ばれた聖女なのか」
「違います」
「……」
「私は贋物です」
今度は、迷いなく答えた。
その瞬間。
カインの呼吸が、ほんの僅かに止まった。
サフィールは見逃さなかった。
「……今、驚きましたね」
「驚いていない」
「嘘です」
「お前が嘘を見抜くと言ったから、試しただけだ」
「残念。私、嘘をつく人間の呼吸を聞くのが好きなんです」
「趣味が悪いな」
「幼少期の環境が悪かったもので」
サフィールは肩をすくめた。
孤児院。
下町。
腹を空かせた子供たち。
パンを盗んだと言い張る子。
盗んでいないと言い張る子。
食べていないと言いながら、口元にパン屑をつけている子。
あの頃からだった。
人間の言葉より、音を信じるようになったのは。
「……それで?」
カインが問う。
「何がです?」
「本物の聖女ではないなら、なぜ聖女を続けている」
その問いに。
サフィールは、初めて答えなかった。
代わりに窓の外を見る。
大聖堂の中庭では、神官たちが朝の儀式を始めていた。
白い衣。
金糸の刺繍。
祈りを捧げる人々。
皆、神を信じている。
――サフィール以外は。
「……便利だからです」
「便利?」
「聖女という肩書きは」
サフィールは微笑んだ。
「人の秘密を聞くのに、とても便利なんですよ」
「秘密?」
「ええ」
貴族の不倫。
商人の横領。
司祭の賄賂。
騎士の裏切り。
令嬢の偽装婚約。
告解室には、毎日いろいろなものが流れ込んでくる。
罪。
嘘。
嫉妬。
欲望。
そして、ときどき。
殺人。
「聖女なら、誰も私を疑いません」
「だから聞くのか」
「ええ」
「聞いて、どうする」
「場合によります」
サフィールは人差し指を一本立てた。
「本当に反省している人には、赦しを」
二本目。
「嘘をついている人には、嘘をついた理由を」
三本目。
「誰かを殺そうとしている人には――」
そこで、笑顔が消えた。
「殺させないための方法を」
カインが黙った。
「あなたも、その一人です」
「俺はもう人を殺している」
「知っています」
「何人殺したと思う?」
「知りません」
「聞かないのか」
「聞きません」
サフィールは答えた。
「人数を聞いたところで、死んだ人は戻りませんから」
「冷たいな」
「そうですか?」
「普通の聖女なら、罪を悔い改めろと言う」
「私は普通ではないので」
「贋物だからか」
「贋物だからです」
そこで。
カインが初めて笑った。
本当に僅かだった。
口元が、ほんの少しだけ動いた。
けれどサフィールには十分だった。
笑った。
この男が。
人間らしく。
――その瞬間。
大聖堂の外から、けたたましい鐘の音が響いた。
今度は三度ではない。
四度。
五度。
六度。
警鐘だった。
「……何事?」
扉の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。
「聖女様!」
副司祭だった。
声が裏返っている。
「どうしました?」
「たった今、王宮から使者が――」
扉が開く。
副司祭の顔は真っ青だった。
「王太子殿下が、毒を盛られました」
空気が止まった。
サフィールは黙って副司祭を見る。
「命に別状は?」
「まだ分かりません。ですが、医師団は全員、同じ意見です」
「何を?」
「毒物が、聖女の薬湯に使われるものと一致していると」
サフィールの目が細くなる。
「……私の薬湯?」
「はい」
背後で。
カインが静かに立ち上がった。
「なるほど」
「何がです?」
「お前を殺すためじゃない」
灰青の瞳が、サフィールを見る。
「お前を犯人にするためだ」
その言葉を聞いた瞬間。
サフィールの耳が、別の音を拾った。
扉の外。
副司祭の背後。
誰かがいる。
足音はない。
呼吸もない。
けれど。
衣擦れが、ひとつ。
ごく僅かな金属音。
そして――
心拍。
ドクン。
サフィールは息を止めた。
聞き覚えのある心音だった。
今朝、告解室に来た人物。
あの老婆でもない。
カインでもない。
もっと身近な。
毎日、大聖堂で顔を合わせている人間の心音。
「……副司祭様」
「はい?」
「扉を閉めてください」
「え?」
「今すぐ」
サフィールは立ち上がった。
「ここから先は、誰も入れないで」
「しかし、王宮への報告が――」
「いいから」
自分でも驚くほど低い声が出た。
副司祭が扉を閉める。
鍵がかかる。
サフィールは振り返った。
「カイン」
「何だ」
「あなた、さっき言いましたね」
「ああ」
「私を殺すのは、まだ先だと」
「そうだ」
「では、取引をしましょう」
サフィールは右手を差し出した。
「あなたは私を殺さない」
「……」
「その代わり、私があなたの名前を守ります」
「名前なんていらない」
「なら、別のものでもいい」
「何を?」
「あなたが一番欲しいもの」
カインは黙った。
やがて。
「お前は、俺が何を欲しがっていると思う?」
サフィールは彼の顔を見る。
心臓は読めない。
呼吸も乱れない。
表情も変わらない。
だからこそ。
彼女は初めて、音ではなく自分の勘だけで答えた。
「――死ねる場所」
カインの瞳が、初めて揺れた。
「……どうして」
「殺し屋が、殺すことを仕事にしているのに、自分が死ぬことだけを恐れていない顔をしているから」
沈黙。
やがてカインは、差し出された手を取った。
冷たい手だった。
「取引成立だ」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼はサフィールの耳元に顔を寄せる。
「一つだけ教えておく」
「何を?」
「王太子に毒を盛った犯人は――」
低い声が、耳を打つ。
「俺じゃない」
「……でしょうね」
「なぜ分かる?」
サフィールは笑った。
「あなたの心臓は読めませんから」
そして。
ほんの少しだけ、声を落とす。
「だから逆に、あなたが犯人なら困っていたんです」
カインが黙る。
「あなたのような人間が敵だったら、私は本当に困る」
「敵ではない」
「今は、でしょう?」
「ああ」
カインは答えた。
「今は、お前の味方だ」
その言葉と同時に。
扉の向こうで、何かが落ちた。
カラン、と乾いた音。
サフィールは振り返る。
そして、確信した。
――この事件は、王太子暗殺未遂ではない。
自分を犯人に仕立てるための事件でもない。
もっと大きな何かが動いている。
なぜなら。
王太子に毒を盛った人物の心音は。
サフィールが知る限り、この大聖堂で最も聖なる場所にいる人間のものだった。
そしてその人物は。
今も扉の向こうで、サフィールの死を待っている。
「……カイン」
「何だ」
「あなた、殺し屋なんですよね?」
「ああ」
「だったら――」
サフィールは、聖女らしい笑顔を浮かべた。
「一人、殺してほしい人がいるんです」
カインの口元が、僅かに上がった。
「誰だ?」
「まだ殺さないでください」
「なぜ?」
「まずは――」
サフィールは告解室の扉を見つめた。
「その人が、何を贋造したのか確かめたいので」
今日もまた、告解室には贋物が一つ増えるのだった。




