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聖女サフィールの告解室には今日も贋物が並ぶ  作者: kaka


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第1話「告解室の心拍数」

王立大聖堂の告解室は、朝の光を最も遠ざける場所にある。


ステンドグラスが投げかける青と朱の色は、ここにだけは届かない。届くのは格子越しの吐息と、生暖かい忏悔の言葉だけだ。


「――これで三度目です、聖女様」


格子の向こうで、老婆の声が震えていた。


「隣のマダムのベーコンを、また吊るしっぱなしのまま失敬してしまいました。神はお許しになられるでしょうか」


サフィールは目を閉じた。


聴覚を、一点に澄ませる。


心拍。一分間に六十二。規則正しい。呼吸に乱れなし。衣擦れは質素な木綿。指先がロザリオを撫でる音は、緊張ではなく癖によるものだ。


(……本当に盗んでいる。でも、謝罪のために来ているんじゃない)


ベーコンの話が三度目なら、懺悔ではない。これは――報告だ。罪の告白ではなく、「私は今日も生きて、隣人と関わっている」という孤独の確認。たぶん、夫も子も先に亡くした一人暮らしの老婦人にとって、この告解は週に一度の話し相手なのだ。


サフィールは、聖女としての声色を喉の奥に置いてきた。


「おばあさま。ベーコンは、燻製の色が薄いものを選んでいらっしゃいますか」


格子の向こうが、わずかに硬まる。


「……え?」


「色が薄いということは、乾燥が足りません。今の季節は傷みやすい。盗むなら、吊るして三日目の、一番表面が乾いたものにしなさい。腸を壊します」


沈黙が落ちた。


そして、小さく、くしゃりと笑う音がした。


「聖女様、あんた、面白い人だね」


「面白い聖女と呼ばれるには、まだ修練が足りません」


「来週も来ていいかい」


「ベーコンの報告が四度目になる頃には、マダムに直接お話を。告解室を賄賂の相談所にするのは、いくらなんでも神に失礼です」


老婆は、喉の奥で笑いながら立ち去った。足音が遠ざかる。


サフィールは、僅かに肩の力を抜いた。


(――神の声は、今日も聞こえない)


百年に一人の聖女。王立神学校首席。神殿騎士団が勲章を捧げる、清らかな乙女。


すべて、嘘だ。


サフィールに聞こえるのは神託ではない。心拍の乱れ、呼吸の深さ、筋肉の緊張が生み出す衣擦れの音。下町の孤児院で、食うか食われるかの毎日を生き抜くために磨いた、嘘を嗅ぎ分ける耳。


神が聖女を選んだのではない。


サフィールが、聖女の皮を被ることを選んだのだ。


「聖女様」


副司祭の声が、薄い扉の外から届く。


「次の告解者がお待ちです。――お身分は申し伝えられませんが」


間があった。副司祭の呼吸が、わずかに浅い。緊張だ。高位の者が来た時の、あの居心地の悪さ。


「どうぞ、お通しして」


扉の外で、革靴の音が近づいた。


硬質で、均等で、速すぎず遅すぎない。体重移動に無駄がない。訓練された身体。聖職者ではない。貴族でもない。兵士――いや、もっと鋭い。


格子の向こうに、誰かが座る気配。


「懺悔を始めます」


男の声は、低く、よく通った。年齢は二十代半ばか。声帯に疲労の跡がない。普段、あまり喋らない人間だ。


「聖女様。私はこれから、この国の聖女を殺します」


サフィールの鼓膜が、静かに震えた。


心拍を探る。


――乱れがない。


一分間に五十八。宣言の前後で、まったく同じ。呼吸は深く安定し、指先が触れる木の質感すら感じ取れるほどに、身体が静かだ。


嘘ではない。


少なくとも、この男にとっては真実だ。


「……ずいぶんと突飛な懺悔ですね」


サフィールは、声の温度を変えなかった。


「殺意を告げる場所は、ここではなく衛兵詰所です。それとも、神に殺しの許可を求めにいらしたのですか」


「許可はいらない。確認しに来た」


「確認とは」


「聖女の首が、本当に神に祝福されているのかどうかを」


男の心拍が、初めて、微かに変化した。


加速ではない。――減速だ。身体が、何かの準備に入った。獲物を前にした狩猟者の、あの独特の沈静。


(……来る)


直感だった。


次の瞬間、格子の木枠が音を立てて外れた。――いや、外れたのではない。触れられただけで、精密に分解された。


目の前に、男の顔があった。


闇色の髪。凍った湖のような灰青の瞳。端正な顔立ちに、感情の皺が一本も刻まれていない。


美しかった。彫刻のような、完璧な美しさ。ただし、彫刻に宿るはずの命の温もりだけが、削ぎ落とされている。


男の手が、サフィールの喉に伸びる。


速い。――けれど、サフィールは動かなかった。


逃げなかったのではない。


男の心拍を、最後まで聴いていたのだ。


喉に指が触れた瞬間、心拍が跳ねた。


六十一。


上昇幅、三。


――殺意のない殺し屋。


「……逃げないのか」


男が、初めて人間らしい声を出した。


「逃げる必要がないので」


サフィールは、喉に触れたままの男の指を見つめて、静かに言った。


「あなた、私を殺す気がありませんもの」


灰青の瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。


「なぜ分かる」


「心拍が正直です。先ほどからあなたの心臓は、『この女を殺したくない』と告げ続けている。――いいえ、もっと正確に言いましょう」


サフィールは、喉に触れる指先に、そっと自分の指を重ねた。


「あなたの心臓は、私に触れたいと言っています。殺すためではなく、確かめるために」


沈黙が、告解室を満たした。


男の指が、サフィールの喉から離れた。


だが、退かなかった。


「……お前は、何者だ」


「サフィール・ヴァン・ローゼンハイム。神の声が聞こえない聖女です」


サフィールは、微笑んだ。


本物の、下町育ちの笑みで。


「それで、殺し屋さん。名前を聞かせてもらえるかしら。殺される側が名前を知らないなんて、あまりに不公平だと思わない?」


男は、長い沈黙の後、答えた。


「――ノア。名は、まだない」


「まだない?」


「捨てた。人を殺すたびに、名は濁る」


「じゃあ、私がつけてあげる」


サフィールは、考える素振りもなく言った。


「ノアは気に入らないわ。方舟の男は大洪水を生き延びたけれど、あなたは溺れている。――カインはどう? 最初に人を殺した男の名。あなたにぴったりよ」


男の――カインの心拍が、二度目の乱れを見せた。


上昇幅、七。


「……お前という女は」


「贋物の聖女よ。それで、カイン。私を殺すのはいつ?」


「まだ、殺さない」


「理由は」


カインは、格子の残骸を見下ろして、静かに答えた。


「お前の心拍も、読めないからだ」


――その言葉が、告解室の空気を凍らせた。


心拍を読む者同士。


互いの嘘が通用しない場所で、殺し屋と聖女は出会った。


サフィールは、内心で舌を打った。


(……しまった。この男、私と同じ耳を持っている)


外では、礼拝の鐘が鳴り始めていた。


神に届くはずの音が、贋物の聖女の鼓膜だけを、正確に打ち鳴らしていた。

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