湯狭の夜1
「ん」
振り返ると、道の向こう側で手を振っている背の高い女が一人。
……誰?
目を凝らして見ると、あぁ夕方に見た女だ。
夕方と同じく、右の方だけ髪を止めている。
軍服じゃないのでちょっと見違った。
しかし、声を掛けられる様な事は無い、筈。
それにボクじゃないかもしれない。
通りにはまばらだが人が居るし。
なので、そのまま女を無視して歩き出す。
「あ! ちょっとっ!」
大きな声が聞こえる。
どうやらボクの様だが振り返ることはしない。
何故なら、少ないとはいえ人はいる。
そんな中に大声で呼ばれて、恥ずかしくない訳が無い。
ボクは繊細なのだ。
「待ちなさい!」
口調が命令になった。
そう言われると逃げたくなる。
何故だろう? 誰か調べてくれないか?
早歩きから小走り、そして、長距離走に。
「はぁ、はぁ……」
夕方にいた公園の木の陰に隠れながら息を整える。
なんでこんな目に遭わなきゃいけなんだ。
自分の行動を思い返す。騒ぎは起こしていないし、関わってもいない。
追われる理由は無い筈だ。
息を整えつつ、辺りを窺う。
人の気配は、無い。
そっと脚を踏み出す。
「準備は出来たかい?」
麻呂隊を敗走させた部隊が気になり、湯狭に潜入して情報を集めさせる事にした。
無論、指揮は彼が取る。
「おい。なんで俺が?」
「暇だろ?」
比奈人がぶつぶつ文句を言っているが、どうせ才蔵から何か言われているんだろう。
すんなり俺の指示に従ってくれた。
夜の士威街道をまっすぐに駆け抜ける。
「比奈人隊長、前方に敵らしき影が」
隊長……。
なんともくすぐったい呼ばれ方だ。
「どこ?」
前方の暗闇を指差す方を見る。
ちらちらと光がちらついているな。
「進路はこのまま、このまま作戦を実行する」
「了解」
アクセルを踏み込んで、一気に前方に駆け出す。
発砲音と共にアスファルトが飛び散る。
同時に後ろからも発砲音。
俺に当てるなよ〜。
引いていく敵さん。
数は、四、五人位か。
哨戒か、本隊を呼ばれる前に片付けよう。
俺の愛刀『深淵乃月』を掲げて、振り下ろす。
まず一人、次いで払って二人目。
逃げる三人目を切り払い、四人目を追いかけて突き崩す。
五人目を追いかける途中で、街の方から応援が来た。
「お前等は帰れ。後は俺一人でやる」
「しかし」
「無駄に死ぬ事は無いだろう。命令だ」
俺一人の方がやりやすいって言うのが正直なトコだけど。
「了解。では」
後ろの方で激しい銃撃が聞こえる。
後ろを振り返ると、二人が俺を追ってきた。
「ついてないな」
再び、薙刀を振るい二人を切り伏せる。
そのまま、街に向かって走り抜ける。
夜の公園。
街灯と月明かりが照らすベンチに一人座ってから、一時間。
魚が泳いでいるのか、池に写る月が揺れている。
合流ポイントはここに十時。
時計の針はすでに十一時を指している。
誰一人、来ない。
捕まったか、それとも……。
いつまでもここで座っていてもしょうがない。
「はぁ、はぁ……。なんで、逃げるの」
膝に手をついて、荒れた呼吸を整える。
顔を上げると、もう彼女の姿は無い。
見失った。誰かに聞こうにも誰もいない。
「はぁ、帰ろ」
時計は十一時を少し回った所。
宿舎に戻る途中、通りかかった公園から争う声が聞こえた。