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今日は仕事で日大光が丘病院へ行く。入居者を連れて介護タクシーに乗ること十分ほどで到着。天気はあいにくの雨。上着越しにもとても寒い。
日大光が丘病院には僕も過去に来たことがある。救急車で。あれは何だったかな、車に轢かれたときだったか、意識不明になって前歯を折ったときだったか。救急車には何度も乗っているのでよく憶えていない。
大きな総合病院なので人待ちが多く、待合時間が長い。その間に車椅子の入居者と話しつつ、村上春樹の『アフターダーク』を読み終える。つまらなくはないが格別面白いとも思わない。複数の男女が夜の時間を生きる話だった。間違いがなければ。
名前を呼ばれる。診察は十分ほどで終了。医師と今後の診察、通院予定について話す。少し重要な話。こういう話を僕のようなチンピラに任せるなんて、上司は何を考えているんだろう。まあいいけどね。後、処方箋を貰い、受診料を支払う。介護タクシーを携帯電話で呼んで施設に帰る。後、処方箋を薬に変える。
最近、自分の彼女から「死にたい」「もう自殺する」云々というメールおよび電話が相次ぐ。僕はだいぶ気ぶっせいになる。これが普通の女の場合であれば笑って聞き流せるが、僕の彼女は精神病院に五ヶ月以上入院していた筋金入りの自殺志願者だ。不安にもなる。僕は「とりあえず本を読んだら?」とアドバイスしているのだが、彼女曰く「本なんか読めない。本を読むにも才能が要る」とのこと。そうか。本を読むには才能が要るのか。知らなかった。
以下は倉田百三の著『愛と認識との出発』(岩波文庫)からの抜粋。
<blockquote><p>たとい充実せぬはかない気分で冷たい境地をうろついていても、譬えば浮き草の葉ばかり揺いで根のない如く、吹けば消え散る心の靄、こんな生活をして、果ては恐しい倦怠のみが訪れても私は死にたくない。かかる生が続けば続くほど、益々運命を開拓して心の隈々まで沁み込むような生が得たい。私はあくまで生きたい。</p></blockquote>ぼろ雑巾になっても生き抜く。感受性も想像力も抹殺して、最後まで生きる。彼女にはそれが分かってない。僕も分かってないけれど。何故なら死にたいのは俺の方だからだ。




