番外編 もうひとつの、ただいま
異世界へと繋がる光を抜けた先には、懐かしい景色が広がっていた。
見慣れた住宅街、電線、遠くに聞こえる車の音。十年前まで、当たり前のように過ごしていた世界。
「……本当に、帰ってきたんだな」
エド――いや、この世界での彼の本当の名前は、涼太といった。「エド」というのは、旅の最初に、自己紹介代わりに名乗った、彼が昔好きだった物語の主人公の名前だった。異世界の人々には、涼太よりエドの方が呼びやすかったし、なにより、勇者としての自分と、元の世界の自分を、少しだけ切り離しておきたい気持ちもあった。
「涼太様と、お呼びすればいいですか?」
戸惑うマリアの問いに、涼太は優しく笑った。
「様はいらないよ」
*
実家の前に立つと、涼太の足が、少しだけ震えた。
十年間、行方不明のまま。家族には、どれほど心配をかけただろう。
意を決して、玄関の扉を開ける。
「……ただいま」
奥から、物音が聞こえた。それから、信じられないという顔をした母が、廊下の向こうから飛び出してくる。
「涼太……!? 涼太なの……!?」
「おかえり」――そう言おうとして、母の声は、涙で潰れてしまった。
「どこ……どこほっつき歩いてたのよ、この十年……! 心配したのよ、どれだけ……!」
「ごめん、母さん」
涼太は、母をそっと抱きしめた。
「信じてもらえるかわからないけど……世界を、救ってきた」
「は? 何言って……」
困惑する母に、涼太は持たされてきた金貨の入った袋を差し出した。異国の紋章が刻まれた、見たこともない金貨の数々。
「……嘘、じゃないのね」
金貨を手に取り、まじまじと見つめた母は、やがて、どこか諦めたように、それでも安堵したように、小さく笑った。
「バカ息子だと思ってたけど……本当に、とんでもないことしてたのね、あんた」
*
そこで母は、涼太の後ろに立つ人影に気づいた。
「……その子は?」
「一緒に旅してた……俺の、大切な人。連れてきちゃった」
涼太の言葉に、母は呆然と立ち尽くす。
マリアは、緊張した面持ちで一歩前に出ると、丁寧にワンピースの裾を持ち上げ、深々と頭を下げた。
「はじめまして。マリアと申します。お母様、よろしくお願いいたします」
その所作は、あまりにも優雅で、あまりにも洗練されていた。母は、目の前の光景が信じられないというように、口をぱくぱくとさせる。
「……姫が。うちに、姫が来た……?」
「母さん、実は」
涼太が観念したように続けた。
「マリア、本当に王女様だったんだ」
「はあああ!?」
母の悲鳴のような声が、玄関に響き渡った。
「ちょ、ちょっと待って、王女様って……! あんた、まさか無理やり連れてきたんじゃ……!」
慌てる母に、マリアは静かに、けれどはっきりと首を振った。
「いいえ。私が、来たくて来たんです。涼太さんと、一緒にいたくて」
その真摯な言葉に、母はしばらく黙り込んだ。それから、ふう、と大きく息を吐いて、覚悟を決めたように笑った。
「……わかったわ。狭い家だけど、ここを自分の家だと思ってね、マリアさん」
「ありがとうございます、お母様」
マリアの顔が、ぱっと明るくなった。
*
その日の夕方、仕事から帰ってきた父も、涼太の姿を見て絶句した。
「お前……! 涼太、本当に涼太か……!?」
「ただいま、父さん」
「――おかえり」
父の目にも、涙が滲んでいた。多くを語らず、ただ、その一言だけを、噛みしめるように口にした。
*
それから、涼太とマリアの、新しい生活が始まった。
家業を営んでいた父の仕事を、涼太も手伝うようになった。慣れない手つきで働く涼太を見て、父は「相変わらず不器用だな」と笑いながらも、どこか嬉しそうだった。
マリアは、この世界に少しずつ慣れていくために、毎日、涼太の母と一緒に過ごした。見たこともない道具、聞いたこともない言葉。戸惑うことも多かったけれど、母は根気強く、一つ一つ、優しく教えてくれた。
「マリアさんは、覚えが早いわねえ」
「お母様の教え方が、とてもお上手だからです」
そんな他愛もないやりとりを交わしながら、マリアは、少しずつこの世界に馴染んでいった。
*
正直に言えば、最初のうちは、勢いのまま涼太についてきてしまった、という自覚が、マリアの中にはあった。あの夜の告白と、酒の席の空気に押されるようにして交わした約束。あとから、少し怖くなる瞬間もあった。
けれど、暮らし始めてすぐに、マリアは気づくことになる。
この世界で、頼れる人は、涼太しかいない。
言葉も、常識も、道具の使い方さえも、何もかもが違う世界だった。心細くなる瞬間は、数え切れないほどあった。そのたびに、涼太はすぐそばにいて、根気強く教えてくれた。
「大丈夫、俺も最初は同じだった。逆の意味で、だけど」
そう言って笑う涼太は、異世界で右も左もわからなかった十年前の自分と、今のマリアを重ねているのだろう。誰よりも、その心細さを理解している人だった。
夜、慣れない環境に眠れずにいると、涼太はいつも隣に来て、そっと手を握ってくれた。
「怖かったら、いつでも言えよ」
「……大丈夫です」
「無理するなよ。マリアは頑張り屋だから、つい隠すだろ」
図星を突かれて、マリアは思わず笑ってしまう。こんなふうに、自分のことをまっすぐ見てくれる人が、これまでいただろうか。
王女として過ごしてきた日々、誰もがマリアに敬意を払い、丁寧に接してくれた。けれど、それは「王女マリア」に対するものであって、「マリア」そのものに向けられたものではなかったのかもしれない。
涼太は違った。王女だから、とか、勇者パーティーの一員だから、とかではなく、ただ、マリアという一人の人間として、いつも優しく、まっすぐに向き合ってくれた。
――ああ、私。
ある夜、隣で眠る涼太の寝顔を見つめながら、マリアはふと気づく。
――いつの間にか、本当に好きになってる。
酒の席の勢いで始まった関係のはずだった。けれど今は、勢いなんかじゃなく、確かな想いとして、マリアの中に根付いていた。
「……ん、どうした?」
視線に気づいたのか、涼太が薄目を開けて尋ねる。マリアは、慌てて首を振った。
「なんでもありません。……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
安心しきったように、また眠りに落ちていく涼太の横顔を見つめながら、マリアは、そっと自分の胸に手を当てた。
とくん、とくんと、確かな鼓動が、そこにあった。
異世界の片隅で、もう一つの「ただいま」と「おかえり」が、静かに、けれど確かに、育まれていった。




