後編
「ミレア!!」
遠くから低い声が響いた。一瞬、誰の声なのか分からなかった。聞き慣れない男の人の声だったからだ。
けれど、こちらへ駆けてくる黒髪を見て目を見開く。
(カイル……?)
私の知っている声とは全然違う。そう思った次の瞬間には、カイルが私の隣へ滑り込んでいた。
「そのまま! 今、代わるから!」
カイルが傾いた導管へ手を向ける。強い魔力が一気に広がり、私が作っていた障壁を包み込むように支えた。
「でも、作業員さんが――」
「もういい。止めて!」
言われるまま恐る恐る魔力を切る。それでも障壁はびくともせず、巨大な導管をしっかりと受け止めていた。安全管理の職員たちが駆け込み、下敷きになりかけていた作業員を引きずり出す。
「救出しました!」
その声を聞いた途端、張りつめていた力が抜けた。胸の奥は焼けるように痛み、足にも力が入らない。その場へ崩れそうになった身体を、カイルがすぐに抱き止めた。
「ミレア、大丈夫か!? どこが痛い?」
「胸が、けど……大丈夫。いつものだから」
「大丈夫じゃないだろ」
顔を上げて、私は少し驚いた。カイルの顔が真っ青だった。私を支える腕まで、かすかに震えている。
「カイルこそ、顔色――」
「俺はいい。それよりお前――」
言葉が途切れた。
カイルの頬を、涙が伝った。
「……え」
今のカイルが泣くところなんて見たことがない。そもそも笑っているところさえ、もう何年も見ていなかった。
「カイル?」
名前を呼ぶと、私を抱える腕に力がこもった。
「……守れて、よかった」
掠れた声だった。
その瞬間、昔、母から聞いた話が頭をよぎった。魔獣に襲われたあの日。血だらけになった小さなカイルが、意識のない私を必死に連れて帰ってきた。大人を見つけると泣きながら私の名前を何度も呼び、助けてくれと訴えていたという。
目の前にいるのは、私よりずっと大きくなった男の人なのに。
「カイル……?」
もう一度名前を呼んだ時、私を支えていた腕から突然力が抜けた。
「え?」
カイルの身体が傾く。
「カイル!」
今度は私が、その身体を必死に受け止めた。
◇
次に目を覚ました時、私は施設近くの治療院にいた。
魔力機関へかなり強い負荷がかかったものの、新たな損傷はなく、しばらく休めば問題ないらしい。それを聞いて安心するより先に、私は治療師へ尋ねた。
「カイルはどうなったんですか?」
「別室で休んでいます」
「どうしてカイルまで倒れたんですか? あの人、私よりずっと魔力量がありますよね。自分の魔法を使ったくらいで倒れるような人じゃないはずです」
治療師は少し答えに迷ったあと、担当の医師から説明すると言って私を別室へ案内した。そこには年配の医師が待っていて、机の上には私とカイルのものらしい検査結果が並べられていた。
「ミレアさん。あなたは幼い頃の事故で魔力機関の一部を損傷していますね」
「はい」
「その事故の際、カイル・エバンスさんも一緒にいたと伺いました。今回お二人を検査したところ、魔力機関同士をつなぐ特殊な魔力経路が見つかりました」
「……つながってる?」
思わず聞き返す。
「通常、他人同士の魔力機関が直接つながることはありません。おそらく幼少期の事故で、カイルさんの非常に強い魔力があなたへ流れ込んだ際に、偶然ごく細い経路ができたのでしょう」
「じゃあ、事故の時から?」
「経路そのものはそうだと思われます。ただし、今の状態は自然にできたものではありません。後から意図的に拡張され、固定されています」
「意図的に……?」
医師が頷いた。
「あなたが魔法を使った際、損傷した魔力機関で処理しきれない負荷の一部が、その経路を通してカイルさん側へ流れるようになっています。彼の魔力機関は非常に大きな容量を持っているため、その負荷を処理できる。ただし、処理できることと何も感じないことは別です」
嫌な予感がした。
「……痛いんですか?」
「はい」
頭の中で、何かが音を立ててつながった。
私が仕事で小さな識別魔法を使ったあと、一瞬だけ眉間に皺を寄せたカイル。以前にも何度か見た、同じ表情。
そして十四歳の頃。
初めて痛みをほとんど感じずに魔法を使えた日。嬉しくてカイルのところへ走っていき、目の前で魔法を見せた。
『魔法なんて誰でも使えるだろ』
あの時も、カイルは顔をしかめていた。
「……うそ」
声が震えた。
「私、十四歳くらいから急に魔法を使うのが楽になったんです。それまでは小さな魔法でもすごく痛くて。でも先生から、成長すれば魔力機関が安定する可能性もあるって言われてたから、それでだと思ってて……」
カイルは私より一つ年下だ。
「十三歳……」
医師がわずかに目を見開いた。
「その頃から急に?」
「はい。そんな歳で、こんなことできるんですか?」
「普通ならまず不可能です。ただ、もともと事故でできた経路が存在していたことと、カイルさんほどの魔力量と技術があれば……可能性がなかったとは言えません」
十三歳のカイルが。
私に何も言わずに。
それからずっと、私は普通に魔法を使ってきた。火を灯し、水を出し、仕事でも必要なら小さな魔法を使った。そのたびに自分に残るわずかな痛みだけを感じて、この程度なら大丈夫だと思っていた。
その向こうで、カイルも痛かった。
「今日、カイルが急に私のところへ来たのも……」
「あなたが一気に大きな魔力を使ったことで、強い負荷が流れ込んだのでしょう。離れていても異常が起きたと分かったはずです。カイルさん自身が自分の魔法を使うことに問題はありません。ただ今回は、あなたから流れ込んだ大きな負荷を受けながら救助に加わったため、身体が耐えきれなかったのでしょう」
だから、あんな遠くから走ってきた。
「……これ、どうなるんですか」
「あなたの魔力機関も成長して、以前よりかなり安定しています。今すぐ経路を完全に切るのは慎重に判断すべきですが、検査をしながらカイルさん側へ流れる負荷を減らしていくことはできるでしょう」
その言葉に少しだけ安心した。
でも、胸の中に溜まっているものは全然消えてくれなかった。
なんで。
なんで何も言わなかったの。
カイルが目を覚ましたら、絶対に聞く。
◇
目を覚ましたと聞いて、私はすぐにカイルの病室へ向かった。
扉を開けると、ベッドの上にいたカイルがこちらを見る。
「ミレア」
真正面から名前を呼ばれて、妙な感じがした。
声が低い。顔つきもすっかり大人になっているし、昔よりずっと大きい。同じ魔法省で何度も姿を見てきたのに、こうして向き合ってまともに話すのは、一体いつ以来だろう。
カイルだと分かっているのに、知らない人と話しているみたいだった。
「……聞いたよ。魔力機関のこと」
カイルの表情がわずかに固まる。
「そう」
「なんで、こんなことしたの」
普通に聞こうとしたのに、声が震えた。
「私が魔法を使うたびに、ずっと痛かったんでしょ。なんで何も言わなかったの?」
カイルは少し黙ってから、私を見た。
「俺がそうしたかったから」
「そんな理由で何年も痛い思いするの?」
「俺にとっては、そんな理由じゃないよ。お前が自由に魔法を使う姿が見たかった。昔みたいに、何も気にせず魔法を使って笑ってるお前が見たかったから」
低くなった声でそんなことを言うカイルを見ていると、やっぱり変な感じがする。こんなふうに自分の気持ちを話す大人のカイルを、私は知らない。
「でも、カイルが痛い思いする必要なんてなかったじゃない」
「俺の魔力暴走が、お前の魔力機関を傷つけたんだから」
「違っ……違うよ、それは違う!」
考えるより先に声が出た。
「私はずっと、カイルのことは命の恩人だって思ってた! カイルのことを恨んだことなんて一度もない! 私を助けてくれたのカイルでしょ? 自分だって怪我してたのに、私を連れて帰ってくれたんでしょ!」
カイルが目を見開く。けれど私はもう止まれなかった。涙が次々と溢れてきて、視界まで滲む。
「それなのに、あの日から私のこと避けるようになって、ほとんど喋ってくれなくなって……どれだけ寂しい思いしたかなんて、カイルには分からないでしょう!」
「……寂しかった?」
「寂しかったよ!」
何を今さら驚いているんだ。
「十四歳の時だって、魔法が使えるようになって嬉しくて、一番にカイルのところへ行ったの! カイルなら一緒に喜んでくれるって勝手に思ってた。それなのに『魔法なんて誰でも使えるだろ』って言われて……あの時、すごく傷ついたんだから!」
「……ごめん」
「今さら謝られても困る!」
「うん。本当にごめん」
思っていたより素直に謝られて、余計に涙が出た。
カイルの手が伸びてきて、頬を伝う涙を指先で拭う。
「泣くなよ。お前を泣かせるためにやったわけじゃない」
「誰のせいで泣いてると思ってるの」
「俺だね」
「そうだよ」
もう一度、カイルの指が涙を拭った。
「俺はただ、お前に笑っててほしかったんだ」
その言葉を聞いたら、また涙が落ちた。
「だったら、そばにいてくれたらよかったのに」
カイルの手が止まった。
「……そばにいる資格がないって、ずっと思ってた」
「そんな資格、勝手に取らないでよ!」
泣きながら怒鳴ると、カイルが一瞬ぽかんとした。
「……取る?」
「今そこ気にしないで!」
「分かった」
なんでこういう時だけ素直なんだ。
しばらく黙っていたカイルが、ふいに視線を逸らした。
「……一つ聞いていい?」
「なに?」
「広報にいる男。あいつとはどういう関係?」
涙が止まった。
「……ルシェルさん?」
「最近よく一緒にいるよね」
「まろっちのグッズの打ち合わせしてるだけだけど」
「まろっち?」
「中庭にいる白い謎の生き物。私が勝手にそう呼んでるの」
カイルの眉間に皺が寄った。
「それだけ?」
「それだけだよ」
少し考えて、私はその顔をじっと見た。
「……もしかして、気にしてた?」
カイルは答えない。
でも眉間の皺は消えない。
(分かりやすいな)
そこで、ふとその場所が気になった。
この眉間が動くところを、私は今まで何度も見ている。ルシェルさんと話している時にも見た気がするけれど、魔法を使ったあとにも確かに見た。
あの時は、何か気に入らないことでもあるのかと思っていた。
実際には、痛かったのだ。
「……ちょっとじっとしてて」
「何?」
私はベッドへ近づき、カイルの眉間へ両手の人差し指を当てた。左右からそっと皺を伸ばす。
「……何してるの?」
「ここ、私のせいで働きすぎてたから」
「は?」
「ごめんね、眉間。長いことご苦労さまでした」
カイルが固まった。
「これ以上働かせたら、本当に皺になりそう」
「……ミレア」
「何?」
肩が震えている。
痛かったのかと思った次の瞬間、カイルが顔を伏せた。
「っ……はは」
笑ってる。
思わず手を離すと、カイルは堪えきれなくなったように声を上げて笑い出した。
私は動けなくなった。
低くなった声も、大きくなった身体も、知らない男の人みたいだった。さっきまで真正面から話していても、どこか知らない人と向き合っているような気さえしていた。
でも。
目を細めて、声を上げて笑うその顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた違和感がすっと消えた。
(あ、カイルだ)
私もつられて笑った。
するとカイルが、下ろしていた私の両手をそっと取った。笑いの余韻を残したまま、まっすぐ私を見る。
「……ほんとに、そばにいていい?」
「いたくないの?」
カイルの目がわずかに揺れた。
「……いたい」
その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。
次の瞬間、片方の手が離れ、後頭部へ回る。骨ばった指が髪の中へすべり込んだ。
息を呑む間もなく、唇が重なった。
一瞬だったのか、それとも――
唇が離れても、カイルはすぐには距離を取らなかった。額同士がそっと触れる。
「ずっと好きだったよ」
――時が止まった気がした。




