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 すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。


 ──世界人権宣言・第一条


 私たちの国が、この宣言を"破棄"して数十年が経つ。


 ○●○


 私は、執事の運転する車の窓から、外を流れる景色を眺めていた。

 檸檬(レモン)色の髪が視界の端に現れ、それを耳にかけ直す。

 焚かれているはずの高級なアロマの香りは、鼻が慣れてしまい感じることができなくなっていた。

 執事が退屈しのぎに話しかけてくれているが、適当に返答していたのも億劫になり、今は無視をしている。


(退屈だ……)


 かつての王国の跡地を利用して造られた貴族階級の居住区は、山の上に建てられていた。

 世界大戦で焼失するまでは、難攻不落の城として知られていたキュルべスタン城。

 王城こそ燃え尽きたものの、純白の外壁は今もなお健在で輝き続けている。

 その壁の中に、私たち貴族階級の居住区がある。

 シロの街──キャルバス。

 外壁に囲まれた街へと続く急な坂道。そこを進む。

 道沿いには商店が並び、活気に溢れ、賑わっていた。

 商店の客層は、基本的には庶民なのだろうが、所々に高価な菓子や装飾品の店もあった。

 それは、坂を上るに連れて増えていく。


「何か、気になるものでもございましたか? 」


 ほっほー、とフクロウのような声で笑いながら、執事がバックミラー越しに目を合わせてきた。


「近々、お母様の誕生日でございます。何かプレゼントでもお考えでしたか? 必要とあらば寄り道でも承りますので」

「……そういえば、そうだったわね。忘れていたわ」


 うーん、と悩むように呻くが、実際どうでもよかった。

 当日、適当に焼き菓子でも買って帰れば笑顔を見せることは分かっていたし、それが心の底からの喜びから生じたものではないことも分かっていた。


「ショーン様は、すでにご準備をされたようです。なんでも、我が国随一の職人にオーダーメイドの眼鏡を頼まれたそうです。私も一度──

「不必要に弟の名前を出さないでちょうだい」

「大変失礼いたしました」


 また弟の話だ。

 家では嫌にでも聞かされる。

 そして比べられる。

 父も母も、私には期待をしていない。

 優秀な弟ばかりを、気にかけている。

 はぁ、とわざと大きくため息をついてみたが、もやもやは吐き出し切れない。

 揺れる車内だと、荒れた心が落ち着かない。

 執事に声をかけ、目についた菓子屋の前に車を停めさせた。

 気分転換のつもりだった。車から降りて、甘い匂いで肺を満たす。

 極東の島国の菓子らしいそれをガラス越しに眺めながら、甘い匂いを鼻いっぱいに吸い込む。

 ただ眺めて帰るだけだと、ケチ臭い貴族だと思われそうなので、宝石のような砂糖菓子を一袋購入した。

 執事にも分けてやろうと戻ると、彼は真っ青な顔をして車の前に立っていた。


「──お嬢様、問題が発生いたしました」

「問題? 車が壊れたとかかしら? 」

「……おっしゃる通りでございます」

「…………あら」


 適当に言っただけだったが、どうやら正解だったらしい。

 家までは、まだかなりの距離がある。

 弧を描いた急な坂道。その半分ほどは残っている。

 代車を手配しようと電話をする執事を横目に、私の中に邪な思考が芽生えた。

 私の帰りが少し遅くなったところで、どうせ誰も気にしない。

 半ば自暴自棄になっていた節もある。

 私は執事から電話を奪い取ると、そのまま通話を切り、ある場所を指差した。

 暗い裏路地へと続く道。

 その意味を察したのか、彼は大きく目を開き首を横に振った。


「いけませんお嬢様! 危険です! お嬢様のような方が足を踏み入れて良い場所では──


 私は、口元に指を押し当てて黙らせる。

 キャルバスから伸びるこの道は、()()地域を避けるようにして伸びている。

 通称、カゲの街──クダネス。

 浮浪者たちの街。

 法の外にある街。

 この国の汚点。

 それは、貴族階級の居住区の眼下に広がっていた。

 元々は普通の街だったらしいのだが、王政の終焉を境に急速に治安が悪化した街だ。

 当時整備されていたキャルバスへの道も、この地域を避けるように敷設されたことが重なり、絶壁の影となっていた部分にそれは形成された。

 もちろん、私だって普段は近づかない。見もしない。

 臭いし、汚いし、危ないし。

 だけど、この時の私は少しマトモではなかった。

 そして何よりも、


「クダネスを通った方が早く着くわよね? 」


 代わりの車を待ち、それに乗り込み家に着くまでかかる時間と、クダネスの街中を突っ切って歩いて帰るまでの時間であれば、後者の方が明らかに早く家に着くのだ。

 それほどまでにこのカゲの街は大きく、それを避けるために敷かれた道も、長く伸びてしまっている。


「──ッ、ですが! 」


 それでもうるさく何かを言おうとする執事に、私は露骨にため息をついて見せた。


「不愉快ね。あなたはこの私──シタース・ティーシュヴァツに仕えた日に『拒否権』を売却したのではなくて? 」

「そ、それは、そうなのですが……! 私としては、シタースお嬢様の身に何かあればと! 」

「そう。心配してくれてありがとう。けれども、それは保身よね。私に対してではなくて、自分のための」


 彼の言葉は止まった。

 息を詰まらせるように何度か口を動かし、消えそうな声で言葉を紡ぐ。


「それでも私は、お嬢様が心配なのです……」


 彼の返答に、鼻を鳴らしてしまった。

 いらない心配ね、と切り捨てる。


「あなたは、車を修理してもらいに行きなさい。そのまま直帰で構わないわ」


 背後からの声を無視して、私は裏路地へと入っていった。


 □■□


 カゲの街とはよく言ったものだと思った。

 本来は、キャルバスの絶壁が落とす影が由来なのだろう。だがそれ以上に、歪に高く伸びた鉄骨の違法建築群と、その隙間を埋めるように張り巡らされた煤けた幕が、陽光を完全に遮断して人工の影を作り出していた。

 劣化のせいか幕が一部裂けている箇所があり、そこからのみ日の光が差し込んでいる。

 空気が澱んでおり、嗅いだことのない異様な匂いが鼻をついた。耳鳴りもする。

 早速、元来た道を引き返そうかと思ったが、執事にあんなことを言った手前、すぐに引き返すのはプライドが許さない。


 臭い。暗い。怖い。臭い。

 暗い臭い怖い臭い。臭い臭い臭い──


 どれくらい進んだだろう。

 しゃりん、と鈴のような音が聞こえた。

 下から3番目の高さの窓から、斜視の老婆がこちらを見ていた。

 タバコを持つ腕には鈴がつけられており、それを欄干に叩きつけて音を鳴らしていた。


 しゃりん、しゃりん。


 紫煙を細く吐いて、私の背後へと視線を動かす。

 それと同時に、気配を感じた。


(誰か、いる!? )


 少し歩く速度を早めた。


 しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 今度は横からも気配を感じる。

 人が集まってきているのだろうか。

 いや、集められているのか?


 しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 私の歩く道の両サイドの建築物。その窓から次々と人の顔が見える。

 よそ者である私に、値踏みするような視線を向けている。


 しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 更に歩く速度を早める。

 むしろ走るという表現が正しいような気さえする。

 そんな私と並走するように、バルコニーのような場所を老婆は移動していた。

 そして、欄干を叩く。


 しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 その鈴の音が、何かの合図であることは分かっていた。

 きっと、私の侵入を誰かに知らせるものなのだろう。

 後ろの気配がどんどんと大きくなっている。

 近くなっているのではない。

 数が増えているのだ。

 恐怖で涙が溢れそうになる。


(あの時に、引き返していれば──ッ)


 今更、後悔したってもう遅い。

 息が切れ、呼吸が乱れる。


 しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 恐怖で指先の感覚が失われ、先ほど買った砂糖菓子の袋が手から滑り落ちた。宝石のように美しかった色彩が、泥にまみれて一瞬で汚濁していく。直後、背後から迫る足音によって、それらが無惨に粉砕される鈍い音が響いた。

 間違いなく、背後から誰かがいる。


 しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 そしてついに──、


「……嘘、でしょ?」


 足元が崩れ落ちるような錯覚をした。

 代わりに、涙が頬を伝う。

 たった一滴。

 それが限界だった。


 しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん。


 行き止まり。

 目の前には、無慈悲にも壁がそびえ立っていた。


 しゃりん。


 しばらくの静寂。

 やがて涙が落ち、地面にシミをつくると同時に、私は、ずっと避けてきた後ろを振り返ることしかできなかった。


 目。

 目が見えた。

 目が見ていた。

 目が私を見ていた。

 目が、目が目、目目目、目目、目目目目目目目──


 30人以上の男女の目が、私を見ていた。

 無機質で、到底同じ人とは思えない、光のない瞳孔をこちらに向けている。

 穴のような目。


「──い、嫌……」


 無意識に、胸に手をやった。

 正確には、そこにある物を触る。

 首から下げているそれは、人の目に付かず、けれども必ず自分の目の届く位置に置いておかなければならない物。

 私の、『権利』そのもの。

 そして、きっと目の前の彼らが、──己の『権利』を売り払った者たちが──喉から手が出るほど欲しい物。

 それの感触を確かめるように軽く握る。

 だが、それが良くなかった。


「──そこに、あるんだね」


 声の方向に視線を上げた。

 斜視の老婆が、私を指差していた。

 いや、私の『権利』を。


 し ゃ り ん !!!


 老婆が強く鈴を鳴らした。

 途端に、跳ねるようにして穴のような目をした連中が私に飛びかかってきた。


「嫌ぁぁああアアアアアアアアアアアア!!!」


 口に血の味がするほど叫んだ。

 意味が無いことだとは分かっていた。

 私が悪いと分かっていた。

 後悔しても遅いと分かっていた。

 けど、叫ぶしかなかった。

 ただ、叫ぶしかなかった。

 無意味で、自業自得で、もうどうしようもないのだとしても......。


「──ぅる…ぇ」


「あぁぁあぁぁぁぁあぁぁああああ!!!」


「──うるせぇぇえええええ!!!」


 恐怖で目を瞑っていた私の耳に怒声が降ってきた。

 それと同時に目の前に気配が増える。

 上から飛び降りてきたのだろうか。

 先ほどまでの彼らとは明らかに雰囲気が違うようだ。

 恐る恐る目を開けると、目の前にはボロ布を羽織った同年代と思われる少女がいた。

 彼女は青みがかった黒髪を揺らしながら、私の方に振り向く。


「おい、テメェ」

「…...な、なんですか? 」

「うるせぇよ、叫ぶな。あたしは寝てたんだ。金よこせや 」

「そんな法外な──」

「あん? あたしら相手に法を語るんか? 」


 そこで私は思い出した。

 クダネスの住人である彼らは、大半自らの『権利』を売り払った者たちであるということに。

 そして、それは法の庇護下から離れること引き換えに、法の外の存在になるということを意味する。

 法は国の人民の為のものであり、己が『人権』を手放し、法律上『人』ではなくなった彼らを制限する法は存在しない。


「……それは申し訳ございません」


 何に謝ったのだろうか。正しい反応ではないだろうが、今私にできる精一杯の反応ではあった。

 だが、目の前の少女にとっては不正解だったようで、彼女は、「シラケるわ……」と言って、斜視の老婆へと目を向けた。


「スズ婆、コイツのことあたしが一旦預かってもいいか? 別にあたしらに危害を加える気は無いみたいやし大目に見てやんね? ほら、あたしの顔を立ててさ」

「無い顔を立てようとするんじゃないよレイン」


 老婆──改めてスズ婆は、レインと呼ばれた少女に目を向けたまま、私に指を差す。


「そいつは貴族の子さね。『特権』を所有している。所有しているだけでも金は入るし、売れば大金になる」

「なに? スズ婆は金目当てなのか? 」

「当たり前さね。この街じゃ金だけが全てだからね」

「じゃあ、その貴族の『特権』って売値どれくらいなんだ? 」

「千万はくだらない」

「ん、成立!」

「は?」


 会話の脈絡のなさに、思わず間抜けな声が漏れた。

 そんな私を置いて、レインとスズ婆は話を続ける。


「次の『R()B()』で千万を稼ぐ。それをやるよ」

「フッ、相も変わらずデタラメを言うさね。たった一試合で千万も稼げるかい? 仮に勝って千万稼げたとしても、アンタがアタシたちに金を渡すって保証は? 」


 すると彼女は、首から下げていた物を服から取り出して見せた。

 金属部品が付いた半透明のカード状の物。

 《存在証明カード》──この国において命と同格、いやそれ以上の意味を持つカード。

 そのカードの所有者の、『情報』『財産』『権利』、全てが記録された物だった。

 彼女は、首からかける際に使っていたチェーン部分に指を通し、それをぐるぐると回してスズ婆の元へと投げた。


「それは担保だ。あたしが千万を払えなかったらやるよ」

「ハッ、舐められたもんさね! 」


 一瞬、驚いたような表情を見せたスズ婆だが、ニヒルな笑みを浮かべると、再度そのカードをレインに投げ返した。


「アンタのことはそこまで信用していないわけじゃないさね。口約束だが、この話はナシにするんじゃないよ。『特権』を見逃してやるって話なんだからね」

「話が早くて助かるよ」


 レインはカードを受け取ると、首に掛け直して、私の手を取った。


「テメェ、キャルバスに行きてぇんだろ? ならこんな所通るんじゃねぇよ。大人しく外の道(ミルキーウェイ)使えよな」

「……軽率でした。少し魔が差してしまい」

「まぁ、気持ちは分からんことねぇけどよ」


 私の腕を引っ張り、メインの道から外れた細い道へと入るレイン。その道に入る前に、私はスズ婆と目が合った。


「……」


 一瞬の出来事だった。

 濁った瞳の奥に、邪悪な何かを錯覚した。

 その奥に吸い込まれそうな感覚に襲われかけるが、レインの腕が胸元に当たった感覚で現実に戻される。


「な、何をするんですか!? 破廉恥ですよ!? 」

「うるせぇ、ちょっと当たっただけだろうが……」


 □■□


 レインと呼ばれた少女と一緒にいたからだろうか、あれ以降はトラブルは起きなかった。

 数十分ほど歩くと、焼き菓子のいい匂いがする。

 キャルバス前の有名な焼き菓子屋の匂いだとすぐに分かった。母が好きな店だ。

 そのタイミングで、彼女は私の手を離した。


「デートはここまでだよ」

「いや、デートって……」


 思わず苦笑する。

 私は路地の出口を指差して、少し微笑んで見せた。


「焼き菓子いりますか? お支払いは私がもちますよ。今日のお礼も兼ねて」

「いや、結構だよ。食べ飽きてるから」

「ご冗談を……」


 きっとこれは、彼女なりの遠慮なのだろう。分かっている。ただ、一度断られると私の中のプライドが傷つく。

 なら、と。


「こちら、私の連絡先です。連絡方法があるかどうかは不明ですが、何か困った時にはいつでも連絡して下さい。先ほど話していた『RB』? とやらにも可能であれば援助したいですし」

「ほう、ならこれはありがたく頂こうかな」


 レインは私の連絡先が書かれた紙を受け取ると、そのままポケットに押し込む。


「じゃあな、()()()()。 逆にテメェが、あたしに用がある時は、『トリカゴ』っていうバーに来な。そこで探し物を探しに来た、って言えばいい。また近いうちに会おうな」

「テメェって……、まぁ今回はレインさんには借りがありますし、今日だけは聞かなかったことにします」


 私は彼女に背を向けて、路地へと出た。

 そこで大きく深呼吸をした。

 美味しそうな焼き菓子の匂いが鼻をくすぐる。


(……)


 そこで、私はふと足を止めた。


(……私、レインさんに名前を教えたかしら?)


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