第1話 そっちは道じゃない
「若いの。そっちは出口じゃないよ」
ログインして三分。
俺は町外れの木柵に、腹から乗っていた。
「ぐっ……」
革の腹当てが、思ったよりちゃんと痛い。
腹に食い込む木の角。土の匂い。隣の露店から漂う薬草の青臭さ。頬をなでていく風まで、現実とほとんど変わらない。
すごいな、クロノヴェルム。
――などと感動する格好ではない。
柵のすぐ横で薬草を束ねていた婆さんが、ようやく顔を上げた。
「門なら南だよ」
言われなくても分かっている。
南門の向こうは、朝の駅前みたいに混んでいた。
剣を振り回しながら走るやつ。歩きながら半透明の画面を開いて木にぶつかるやつ。遠くからは「角兎どこだよ!」という叫び声まで飛んでくる。
正式サービス初日。
たぶん、あっちが正しい遊び方だ。
「知ってます」
「知ってて柵を越えるのかい」
「はい」
婆さんの手が止まった。
俺はなんとか反対側へ降りた。
三十七年使ってきた身体より、今の身体はずっと軽い。鏡で見た顔も若かった。なのに柵ひとつで引っかかるあたり、中身まで若返るわけではないらしい。
腰の横へ手をやると、半透明の地図が開いた。
南は親切なくらい色がついている。
道。店。採取場。初心者向けの狩り場。おすすめの進行方向まで小さな矢印で出ていた。
東は、町から少し離れたところで灰色になる。
何もない。
――ことになっている。
でも、柵の向こうでは腰ほどの草が細く倒れ、森の奥まで続いていた。
獣道にしては、少し真っすぐすぎる。
「これ、人が通ってません?」
婆さんは薬草の束を紐で結び直した。
「さあねえ。初心者なら南で兎でも追っときな」
「兎は明日でもいますから」
「灰色の場所も明日あるよ」
それはそうだ。
少し考えてから、俺は地図を閉じた。
「でも、何も知らずに歩けるのは一回目だけなんで」
婆さんが俺を見た。
今度はちゃんと、顔を見た。
「……面倒くさい遊び方するねえ」
「よく言われます」
本当は誰にも言われていない。
今日が初日だ。
森へ入った。
十歩も進むと、町の騒ぎは葉擦れに飲まれた。
鳥みたいな声が二度。靴の下で小枝が折れる。どこかで水が流れている。
それだけで少し笑ってしまう。
ゲームの森に入っただけなのに、旅行初日の朝みたいな気分になる。
草の筋はまだ続いていた。
しゃがんで土を見る。
泥は薄く乾いている。足跡らしいものがいくつかあるが、形が崩れていて人か獣か分からない。
もう少し近くで見ようと顔を寄せた、そのときだった。
「うわっ」
茂みが弾けた。
灰色の獣が飛び出してくる。
犬より一回り大きい。口は二回りでかい。
考えるより先に、腰の短剣を抜いた。
その瞬間、右腕がふっと軽くなった。
腰が回る。
足が半歩前へ出る。
「おお」
自分の動きなのに、自分だけの動きじゃない。
ゲームが、身体の使い方を少しだけ教えてくれる。
初心者でも最低限は戦えるように、動作を補助しているらしい。
獣が横へ跳ぶ。
俺の短剣も、それを追うように動いた。
そのまま次の一歩へ――
太い木の根があった。
「いや、そこまでは知らないのかよ」
派手につまずいた。
牙が頬の横を抜けた。
【HP 71%】
視界の端に数字が出る。
痛い。
ちゃんと怖い。
でも、不思議と嫌じゃない。
立ち上がる。
獣が低く身を沈めた。
今の動きそのものは悪くなかった。
ゲームが用意した、ちゃんとした戦い方なのだと思う。
ただし、どこに立つかまでは選んでくれない。
だったら。
獣が来る。
身体がまた、正面へ踏み込もうとする。
その瞬間、俺は半歩だけ横へずらした。
重い。
身体が「違う」と引っ張り返してくる。
無視した。
木の根を踏む。
幹へ片足をかける。
「よっ」
思ったより高く跳んだ。
「うおっ!?」
格好よく横から斬るつもりだったのに、ほとんど空中からの体当たりになった。
獣も予定外だったらしい。
顔を上げた。
そこへ短剣を振り下ろす。
手応え。
獣が地面を転がり、淡い光になって消えた。
【Lv 1 → 2】
胸の奥が少しだけ軽くなる。
呼吸が通りやすくなったような、脚がわずかに前へ出やすくなったような。
レベルが上がった実感は、それくらいだった。
俺は短剣を構え直す。
さっきと同じように木の根を踏み、幹へ足をかける。
「……もう一回」
跳ぶ。
さっきの半分も上がらなかった。
着地だけは派手だった。
「痛っ」
何もいない森で尻もちをつく。
視界の端には、何の通知も出ない。
「ですよね」
一回できただけで技になるほど甘くはないらしい。
でも、さっきはできた。
その事実だけで十分だった。
立ち上がると、腰の袋の中で小さな牙がカチンと鳴った。
草の筋を追う。
少し先で、地面の跡が二つに分かれていた。
片方には獣の爪跡。
もう片方には、今度こそはっきり靴の跡がある。
「先客か」
正式サービスが始まって、まだ一時間も経っていない。
別に一番乗りが目的じゃない。
……ほんの少しだけ悔しいけど。
靴跡を追っていくと、森の中に細い棒が何本も刺さっていた。
一本、二本、三本。
間隔まで揃っている。
何だろうと思って近づき、そのうちの一本を俺はきれいに踏んだ。
ぱき。
嫌な音がした。
「そこ、踏まないで」
女の声がした。
足を浮かせる。
「……もう遅い?」
茂みの向こうから、黒髪の女が出てきた。
俺の靴。
折れた棒。
俺の顔。
順番に見た。
「三十分」
「え?」
「そこ測るのにかかった時間」
「あー……ごめん」
返事はない。
彼女はしゃがみ込み、折れた棒を抜いた。
別の棒を立てる。
角度を確かめる。
土を固める。
俺もしゃがもうとした。
「触らないで」
「はい」
今度は素直に立った。
彼女の腰には、小さな板が吊ってあった。
細い線がびっしり引かれている。
地図だ。
俺の地図よりずっと細かい。
木立の切れ目。沢。岩場。斜面。
灰色のはずの場所へ、手描きの線が三本伸びている。
「それ、自分で?」
「見れば分かるでしょ」
「いや。すごいなと思って」
棒を直していた手が、ほんの少しだけ止まった。
「……そう」
すぐに作業へ戻る。
「俺、レン」
「聞いてない」
「うん」
一本打ち直してから、彼女が言った。
「ミオ」
「聞いてない」
顔を上げた。
一秒。
「性格悪いね」
「今ので?」
「今ので」
それでも追い返されはしなかった。
ミオは手描きの地図の端を指で叩く。
「公式の地図、ここで終わってるでしょ」
「うん」
「でも、人が通った跡はある」
俺が追ってきた筋とは別に、沢沿いにも細い跡が伸びていた。
「どこまで見た?」
「沢まで。向こうはまだ」
「じゃあ行こう」
「何で一緒に行く前提なの」
「棒踏んだし」
「償いが重い」
口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうかは、たぶん本人も認めない。
そのとき、森の奥から音がした。
コン。
二人とも黙る。
少し間を置いて、もう一度。
コン。
木を叩く音。
ミオが地図を見る。
「沢の向こう」
「見に行く?」
「……見に行くだけ」
「同じ意味じゃない?」
「帰れる道を作りながら行くの」
なるほど。
俺は前へ行きたい。
こいつは、戻れるようにしてから進みたい。
相性がいいのか悪いのかは、まだ分からない。
でも、一人より面白そうだった。
沢は浅かった。
水は膝より下。
少し上流に、三メートルほどの倒木が渡してある。
ミオは当然のように倒木へ向かった。
俺は沢を見る。
三メートル。
さっきの跳び方なら――
「やめて」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「そんな分かりやすい?」
「柵を越えてきた人だから」
便利な分類をされた。
俺は二歩下がる。
ミオが足を止めた。
「本当にやるの?」
「一回だけ」
「その言葉、信用できない」
地面を蹴った。
最後だけ腰をひねる。
一瞬、身体が軽くなる。
「お」
対岸が近づく。
今度こそ、いける。
そう思った瞬間、つま先が泥へ刺さった。
「うおっ」
上半身だけ前へ飛ぶ。
両腕を回す。
倒れる――直前。
右足が勝手に一歩出た。
止まった。
靴は泥だらけ。
片膝も濡れた。
でも、立っている。
「……今の」
振り返る。
ミオは倒木の途中で止まっていた。
「何」
「最後、ちょっと助けられた」
「誰に?」
「ゲームに」
「ふうん」
対岸まで来ると、俺の泥だらけの足元を見る。
地図に何か書いた。
「何書いた?」
「ぬかるみ」
「俺の失敗じゃなくて?」
「そっちは覚えた」
「忘れていいよ」
コン。
今度は近い。
そこから先は、森の空気が少し変わった。
枝が切られている。
しかも高さが揃っている。
地面には、細い車輪の跡。
ミオがしゃがむ。
指で跡の縁を触った。
「新しい」
「人?」
「たぶん」
地図では、ここから先も灰色だ。
なのに、生活の跡がある。
俺はさっきまで聞こえていた「コン」の正体を探す。
少し先。
木々の向こうに、煙が一本上がっていた。
「行く?」
今度は俺から聞いた。
ミオは地図を見てから、煙を見る。
「ここまで来て帰る?」
「それは嫌だな」
「じゃあ聞かないで」
森を抜ける。
最初に見えたのは、小さな畑だった。
次に木の柵。
干された布。
屋根が三つ、四つ。
切り株のそばでは、割ったばかりの薪が積まれている。
人が住んでいた。
俺は地図を開く。
灰色。
ミオも自分の地図を見る。
「……村?」
「みたいだな」
犬が一匹、こっちを見て吠えた。
その声で、一軒の家から男が出てきた。
斧を肩に担いでいる。
男はまず俺たちの顔を見た。
次に、泥だらけの靴。
最後に、俺たちが出てきた森の方を見た。
顔つきが変わった。
驚いた、というより。
嫌なものを見た顔だった。
「……お前ら」
俺とミオは止まる。
「どの道を通ってきた?」
「東の森です」
男は森を見る。
それから、斧をゆっくり下ろした。
「東に」
一度、言葉を切る。
「村へ入れる道なんかないぞ」
ミオが俺を見る。
俺も見返した。
少なくとも俺たちには、ちゃんと一本あった。




