第8話「辛労辛苦」
「だから嫌だったんですよ!!」
今にも泣き出しそうな声で叫ぶ少年、犬飼獅子丸はひどく疲れ果てた顔をしていた。三日徹夜で起きていた時のように。
暫く犬のように跳ねた髪を、がりがり掻きむしる。そのあと、ひとつだけ、深く、それはもう深くため息をついた。
きさらぎ駅に襲われた直後である。夜も遅いし暑いから、と桃太郎のボロアパートに、ひとまず避難することになった。
自称桃太郎御一行は、築75年の和室あり2LDKのリビングにいた。壁の上のエアコンは黒ずんで、変な紙が並んで垂れ下がっていた。ガガガガとシュレッダーのような鈍い音がする。およそエアコン機器から鳴ってはいけない音だ。恐らく相当古い。
室内には、畳部屋の丸いちゃぶ台を囲むように、四人が座っている。若干狭苦しさを感じる八畳の畳はあちこち禿げていて、黒ずみが古臭さを感じさせる。
ちゃぶ台には四人分の湯呑みが並ぶ。真ん中には丸い木製の器、中にはぽたぽたと焼いたであろう煎餅。
ほい、と桃太郎は煎餅を差し出す。今のタイミングで渡すところじゃないだろ、言いかけた言葉を飲み込む。
渋々と獅子丸は、煎餅を一口分ずつ割る。包装を破くことなく、ひたすら割りながら口を開いた。
「……僕、の……生きてるのがイヤな理由のひとつがさっきの”これ”です。多重人格……んん、二重人格か。僕がわかってるのは、現状さっきのヤツだけで……」
「ほうほう、もう少し詳しく」
「ぼ、僕が気付いた時にはもう、そいつは居ました。き……記憶にないことを、周囲から……聞かされるんです。なぜ無視をした、なぜ吠えた、なぜ噛みつこうとした……」
「……そいつぁ野良犬みたいだなぁ……」
桃太郎は無精髭を生やした顎を撫でる。その顔はどこか沈痛な面持ちだ。
獅子丸は肩を縮めて、大きな丸い瞳に涙を浮かべていた。
「……そうですね。僕はそいつを、獣とか犬とか呼んでます。名前すら……わからない。だって、ちゃんと僕の名前を名乗るんです。だからあいつ、自分が何者かわかってる……怖いんです」
「それが原因でいじめに?」
猿彦が口を挟む。獅子丸を向く瞳は若干の同情を含んでいた。
「それも……あると、思います。でもそれだけじゃない、僕の性格とか、もちろんあるんだろうけど。一番は……家族のせいだ」
「家族が嫌いなのか?」
「……どっちかというと……怖い、です。怖いんだ、ああ……やだ……帰りたくない」
苦しそうに手元の煎餅を粉々にして、獅子丸はきつく眉間を寄せた。きゅっと子犬のような目を閉じる。頬には涙が伝っていた。
「……うち、宗教やってて……」
「その……結構ハマっちまってるのか?」
「いや、教祖は僕です」
「!!??」
その場にいた全員の視線が、ばっと獅子丸に集まる。驚愕の二文字が突き刺さった。獅子丸は居た堪れずに深く俯く。
「……僕の顔、ネットで……見覚え、ありませんか?」
「──あ」
小鳥が小さく声を上げる。セーラー服のポケットからスマートホンを取り出し、皆に見えるようにテーブルに置く。
その画面は非常に大きくわかりやすいアイコンが並ぶ。今度は獅子丸が驚愕する。明らかにシニア向けのらくらくスマホだ。
「あ、あの」
「任せてくれ。私はこう見えてSNSには心得がある。テックスでバズ、専門用語も熟知しているぞ」
何を任せればいいんだろう。獅子丸は不可解だった。得意げな小鳥の大人びた顔立ちが幼く見える。
大人ぶったような可愛らしさに胸がきゅんと締め付けられる。獅子丸は胸を押さえて、「おばあちゃんスマホだね」という無粋な言及をやめた。
小鳥は気にせずSNSのアカウントを開く。アイコンは初期設定、フォローフォロワーが3人だった。最後のポストは「スタボはうまい」の一文のみ、2ヶ月前。ほぼ活用していない形跡が見て取れる。
2スクロールほどして、誰かの投稿をシェアしている画面に辿り着く。
桃太郎、猿彦、小鳥はじっと覗き込む。獅子丸だけは、深く顔を背けた。いつまで経っても、後ろから這い寄ってくる怖気に慣れない。
画面で流れるのは動画だった。大勢の人間が綺麗な列を成して、深々と首を垂れている。土下座をしていた。
その先に、一段高い台座がある。その上に立っているのは、真っ白な長い袖のは闕腋袍を着て、紅葉色の袴姿をしている少年だ。
動画は途中で拡大される。少年の顔を映していた。画質は荒いが、目鼻立ちや癖のある髪型からおよその顔付きは予測できる。
彼らの目の前にいる、獅子丸本人だった。
壇上の彼は片手を掲げる。
『吽形のお恵みを!』
掠れた叫び声がした。
『お犬様! お犬様じゃ!』
『神様ぁ、神様ぁ!』
頭を垂れていた信者らしき人々は、おもむろに両手を上げて湧き立つ。音割れした歓喜の声に混ざり、至近距離で声が聞こえた。
『えぐいて、えぐい』
『やば、宗教』
『神っつった、神、神』
囃し立てるような男女が混ざり合った会話だ。撮影者とその関係者の声だった。
画角が揺れる。撮影者が歩いたらしい。歓喜する信者らしき人々が遠退き、艶と光沢のある朱色の柱が見えた。下方には賽銭箱が見える。
そこで動画は途切れた。
動画には、「クラスの陰キャが神やってて草」と、投稿者のコメントが添えられている。
連なるコメントの数は目も当てられない。内容は「死ね」「キショ」「○○高校1年2組犬飼獅子丸くん」「ネ申」「インチキ」「ここの宗教アタオカの集まり」と、散々だった。揶揄や嘲り、知り合いを名乗る人物、個人情報を晒す者、長々とコメントをする者──悪意の塊だけが連なっている。
桃太郎は、太い眉を吊り上げ表情を引き攣らせる。頬には汗が伝っていた。湿度のせいではない。人間に対する嫌悪感への冷や汗だ。
「おいおい、こりゃあ……何だ……」
「これが……全世界に発信されてるんだよ」
小鳥は苦しそうに呟いた。
リポストの形跡が残るっている。一度見ていたのだろう。柳眉を寄せて声を顰めた。
「SNSのやり方を聞いた時、偶然流れてきた。投稿があまりにも悪意に満ちていて……関東が滅ぶ原因に、何か関係している気がしたんだ」
「ネットに晒されていじめに遭ってたのか、少年……いや、犬飼くん。いや、獅子丸くん」
「い、いちいち呼び方に迷わなくていいですよ……」
重たい空気の漂うやり取りの中、空気を読まない者がいた。
顔をしかめていた猿彦が、再度話に割って入る。
「ここ、どこかの神社か?」
「あっ……そうです」
暗い顔をした獅子丸は辿々しく言葉を続けた。
「吽形明神……の、跡取り息子……です」




