第1話「邂逅遭遇」
僕はこれから人身事故を起こす。
思考が鈍るというのは、きっとこういうことだ。湿度の高い気温は汗を滲ませる。雨の臭いがした。まだ降っているのだろうか。駅のホームにひと気は少ない。
ぼんやりと頭が霞みがかっている。今から取ろうとしている行動とは別に、夕飯の献立について考えていた。思考と現実が結び付かない。
……もういいや、虐められるのはうんざりだ。ノートは捨てられて全滅、すれ違い様の「死んでくれ」は聞き慣れた。でも人間には限界がある。
それが僕にとっては今日だった。
これから僕の人生は終わるんだから、何も考える必要はない。
眩しい電車のライトが迫ってくる。今がチャンスだ。柵の無いホームに、僕は身を投げようとして力を抜く。
「あぶなーーーーーーーーい!!」
どデカい声と共に、僕の身体は突き飛ばされた。え、突き飛ばされた?
何で突き飛ばされた? 今自殺しようとしてたのに?
え待って、普通に他殺じゃない?
身体が反復横跳びみたいに右に吹っ飛ぶ。ホームに飛び降りるはずが、横に逸れた。ああ、何だったんだろう……他殺の線は無さそうだな……でも自殺を邪魔された。
ーー僕をいじめるアイツらだろうか。今度は何の真似を?
全身で床に転がる衝撃を受け止めた。腕と脇腹を鈍痛が蝕む。顔を上げて、僕は身体が固まった。
数人が乗っている電車の中に、僕は居た。突き飛ばされた反動で床に座り込んでいた。湿った感触が伝わってくる。雨で濡れた靴や傘を引き摺った床は、泥色に汚れている。
……飛び込もうとした電車の……中に、突き飛ばされたのだろうか。
さっぱり状況が読めない。軽やかな短い音楽と共に、電車の扉が閉まる。
その寸前。見たこともない勢いで、文字通り転がり込んできたおじさんがいた。本当にでんぐり返しで。
四十代ぐらいだろうか。緑色のエプロン姿だが、ぽっちゃりとしたお腹を隠しきれていない。エプロンの白いロゴは、見慣れた星と女性のデザインをしていた。
「我が名は桃太郎! かの有名な鬼退治物語の当人! 君の自殺を止めに来た!!」
あまりにも俊敏な動きで立ち上がると、両手を広げた。ニチアサヒーロー顔負けなキレッキレのポーズを決める。
登場の動きがあまりにもヒーローショー過ぎる。しかしここは電車の中である。彼の台詞を理解するのに、十数秒かかった。
おじさんは、僕の発言までニチアサポーズのまま待機していた。この人は多分、相手の名乗りを待つタイプの悪役だ。
「あの……突き飛ばしました?」
「君の自殺を止めに来た!!」
「突き飛ばしましたよね?」
「君の自殺を」
「ちょっと次の駅で交番行きましょう、ね」
「止めに来た!!」
「じゃ、そういうことで」
「おぉい!! おぉい! おぉい少年!! ちょいと現代人が過ぎるぞ!!」
変人に関わりすぎは良くない。次の駅までの辛抱だ。
通学に使っているスポーツバッグを拾い上げて、僕は座席に座る。腕が痛かった……やはり都会は変な人が多い。
「君、さっき自殺しようとしてただろう?」
おじさんは諦めなかった。
僕の隣に座って、太い眉を寄せてこっちを見る。
「…………」
「…………」
無視をした。
しかし、おじさんは穴が空くほど凝視してくる。ただの視線なのに、圧迫を感じる。距離感が近すぎて、視界の三分の一がおじさんの顔半分だ。
耐えられなくなって、僕は項垂れた。
「……だから何ですか?」
「やはりか! やはりな! そうだと思ったんだ!」
「それを止めるために突き飛ばしたんです……? 立派な暴力ですよ。やめてください」
「勢い余って悪かったな、俺は病んでる人を見過ごせないんだ。身体が先に動いてしまう質でね」
「そこは困ってる人じゃないですか?」
「病んでる人だ」
「はあ……」
「我が名は桃太郎、君の自殺を止めに来た」
「桃太郎って岡山県が発祥の地ですよね?」
「そうだな」
「ここ関東ですよ」
「そうだな」
「…………」
ずっと変な人だ。顔も距離も近いし、ちょっと酸っぱい臭いもする。雨の匂いも混ざってきて、非常に不愉快だった。
ーー何より、偽善者の戯言に耳を貸すのも不快だ。
「……僕が死のうと、他人に関係ないでしょう」
視線も合わせずに僕はそう告げた。
「いや!!!」
しかし、おじさんは諦めなかった。そろそろ諦めろよと思う。
「俺は君に生きていてほしい! 君に死なれたら困る!」
おじさんは無精髭を生やした顎を口いっぱい開いて、熱心に叫んだ。
しらけることを言うんだな。
全ての人間には命の価値ガーとか、君が死にたい明日は誰かが生きたいホニャララとか言われるんだろうか。命の電話で3回は聞いた気がする。
手を擡げ、耳を塞ごうとして。
「君が死ぬと関東が滅びる!!」
なんて?
中規模スケールの危機を知らされて、僕は思わず耳を疑った。
人生の先輩っぽい人の、高尚な説教でも、心ある諭しでもない。
「頼む……! 君が死ぬと関東がやばい……!」
おじさんの切実な願いだけがそこにあった。




