死神は見えない
炎が城を飲み込んでいる。
石造りの回廊に黒煙が充満し、どこかで何かが崩れる轟音が響く。鎧の継ぎ目から血が滲んでいる。それでも、エルシド=アランは走った。走り続けた。背後では、かつて自分が率いた近衛騎士団の騎士達が、一人、また一人と沈んでいった。その断末魔を、音を、彼は聞いていない。聞かないようにしていた。
王都、キングズランドの夜風は冷たかった。
城壁を乗り越え、路地を転がるように抜け、気づけばエルシドはいつもの酒場の扉を押していた。軋む蝶番の音が、場違いなほど間抜けに響く。酒と脂と煙草の匂いが鼻をついた。中はいつも通り、賑やかだった。誰も彼の血に気づかない。あるいは、気づかないふりをしている。この街では、それが正しい生き方だった。
彼は奥の席に滑り込み、テーブルに両腕を投げ出した。肺が焼けるように痛い。息を整えようとするたびに、胸の傷が悲鳴を上げた。
かつて覇王と呼ばれた男が、今や薄汚れた酒場の隅で、荒い息を吐いている。
、、、滑稽だ。しかし後悔はなかった。あの王に出会った日から、自分の刃は彼のためだけにあると決めた。軍門に降ったとき、かつての仲間たちは笑った。天下無双の覇王が、一人の王に飼い慣らされたと。
構わなかった。
ただ、その王が今夜、どうなったかを、、、彼は考えないようにした。考えれば、立っていられなくなる。
「、、、ぐ、く」
息が漏れる。指先が震えている。これは恐怖ではない、とエルシドは自分に言い聞かせた。ただの消耗だ。ただの、、、
「あとは、君だけだ」
声がした。
エルシドは顔を上げた。周囲を見回す。変わらず賑わう酒場の客達。誰も彼を見ていない。声をかけてきた者の姿が、どこにも見当たらない。
「、、、どこにいる」
彼は低く言った。声に凄みを乗せようとしたが、うまくいかなかった。血を失いすぎている。
「ここにいるよ」
声は近かった。耳元と言っていいほど近くで、しかしそこには何もない。振り返っても、空気だけがある。
「ベネディクト=ノワール」
名を呼ぶと、小さな笑い声が返ってきた。愉快そうでも、嘲るようでもない。ただ、静かな笑い声だった。
「よく知っているね」
「、、、知っているとも。お前たちのことは、よく調べた」エルシドは唇の端を歪めた。「死神、と呼ばれているそうだな。ずいぶんと、己に酔った二つ名をつけたものだ」
「僕がつけたわけじゃない。君たちがそう呼んだんだ」
「同じことだ」
テーブルの上に置いた手が、じわりと血で濡れていく。エルシドはそれを見つめた。
「お前たちは、クソだ」
静かに言った。怒鳴りたかったが、そうする体力がもうなかった。
「、、、そうかもしれない」
「人間だと言いながら、人間を殺す。自分たちは特別じゃないと謳いながら、俺たちには見えないところで笑っている。魔女が、よりによって魔女が、俺たちを、、、」
「君たちが先に始めたことだよ」
声は静かだった。責めてもいなければ、開き直ってもいない。ただ、事実を述べるような声だった。それがかえって、エルシドの胸に刺さった。
「、、、そうだな」
彼は目を閉じた。
「俺たちが、先に始めた」
その言葉を最後に、背中に何かが走った。痛みではなかった。むしろ、すとんと何かが落ちるような感覚だった。テーブルに額が触れる。冷たい木の感触が、心地よく感じた。
酒場の喧騒が、波の音のように遠くなった。
そして。
「ーーきゃああああッ!」
誰かの悲鳴が、夜を引き裂いた。




