エピローグ 世界で一番静かな場所
エピローグ 世界で一番静かな場所
春の風が吹いていた。
王都の広場では子どもたちが走り回り、露店からは焼き菓子の甘い匂いが漂っている。噴水の水は澄み、空には穏やかな青が広がっていた。
数年前まで続いていた魔力災害は、もうどこにもない。
「最近ほんと平和だなぁ」
パン屋の主人が笑う。
「魔物被害も減ったしな」
「作物も豊作だってよ」
人々は笑顔だった。
世界は安定した。
それがどれだけ奇跡的なことなのか、多くの者は知らない。
ただ一人の青年が、地の底で黙々と掃除し続けた結果だということを。
王都中央賢者院。
賢者長ヴァルムは積み上がった書類を見て深いため息を吐いた。
「またか……」
机には大量の嘆願書。
『救世主アルト像建立計画』
『アルト祭開催案』
『英雄叙勲式典要請』
頭が痛い。
「本人が全部断るんだよなぁ……」
老人はこめかみを押さえた。
最深部へ何度使者を送っても、返事は同じだった。
『静かに暮らしたい』
『物増やしたくない』
『掃除の邪魔になる』
世界最高の救世主とは思えない理由である。
その時。
部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはリーゼだった。
以前よりずっと落ち着いた顔をしている。派手だったローブは簡素な物へ変わり、杖も実用重視の古い型になっていた。
「おお、リーゼ殿か」
「観測記録、持ってきました」
彼女は机へ資料を置く。
そこには各地の魔力安定値が並んでいた。
どれも正常。
完璧だった。
「……本当に、全部戻ったんですね」
リーゼはぽつりと呟く。
ヴァルムは頷いた。
「アルト殿のおかげだ」
その名を聞いた瞬間、リーゼの目が少し伏せられる。
後悔が消えたわけではない。
きっと一生消えない。
だが彼女は今、その痛みから逃げなくなっていた。
「ガルドたちは?」
「地方へ行ったそうだ」
ヴァルムは静かに答える。
「小さな依頼を受けながら暮らしているらしい」
もう上級冒険者ではない。
名誉も。
地位も。
仲間も。
ほとんど失った。
だが、不思議とリーゼは以前ほど憎めなかった。
皆、愚かだったのだ。
そしてその愚かさを、今は理解している。
「……一度だけ」
リーゼは窓の外を見ながら言った。
「アルトに謝れて良かったと思ってます」
ヴァルムは何も言わなかった。
ただ静かに頷いた。
一方その頃。
世界最深部。
「……よし」
アルトは満足げに頷いた。
庭園の花壇が綺麗に整列している。青白い神代花が風に揺れ、さらさらと水路の音が響いていた。
「アルト様! こちら終わりました!」
ロゼッタが飛んでくる。
彼女の手には、小さな収納箱。
「工具類、用途別に分類完了です!」
「ありがと。見せて」
アルトは箱を開ける。
綺麗だった。
サイズ順に並んだ工具。
色分けされた札。
一目で分かる配置。
「……完璧」
ロゼッタが嬉しそうに笑う。
「えへへ」
最深部は、もう完全に生活空間になっていた。
白銀の回廊。
整理された保管庫。
暖かな食堂。
柔らかな寝具。
神代庭園。
そして、どこまでも澄んだ空気。
静かだった。
穏やかだった。
アルトはその静けさが好きだった。
誰にも怒鳴られない。
誰にも急かされない。
ただ、自分のペースで整えていける。
それがこんなに心地良いことだなんて、昔は知らなかった。
「お茶入りました!」
「お、ありがと」
机へ座る。
窓代わりの結晶から柔らかな光が差し込み、湯気がふわりと揺れた。
香草茶の匂い。
焼きたての小麦菓子。
花の香り。
全部が落ち着く。
ロゼッタは向かいへ座り、嬉しそうにアルトを見つめる。
「平和ですねぇ」
「そうだな」
「世界中がアルト様へ感謝しています!」
「実感ないけど」
「もっと誇っていいのですよ!?」
アルトは困ったように笑った。
「別に、そんな大したことしてないし」
「しました!」
ロゼッタは頬を膨らませる。
「世界を救ったんですよ!?」
「うーん……」
アルトは少し考えた。
最初は、ただ汚かった。
耐えられなかった。
だから片付けただけ。
その結果、世界が救われた。
今でも実感は薄い。
でも。
この静かな空間を見回す。
整った棚。
磨かれた床。
揺れる花。
穏やかな光。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……まぁ」
アルトは小さく笑った。
「片付いてると落ち着くんだよな」
ロゼッタも笑った。
「はい!」
青白い結晶灯が静かに揺れる。
世界の心臓部。
かつて誰にも見向きされなかった最底辺の荷物持ちは、今日も穏やかに暮らしている。
誰かに認められるためではなく。
世界を救うためでもなく。
ただ。
自分が心地よく生きるために。
静かな聖域の中で、アルトはそっと茶を飲んだ。




