マッチ売りの少女アリーセ 第三十九話
アリーセとトマはエレーヌに連れられ街角の喫茶店に立ち寄った。紅茶と焼き菓子で五フラムも取るような店だが、ここはエレーヌが支払う事に不自然は無い。三人は日曜日の正午までの余暇の時間を楽しんだ。
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アリーセと別れて帰宅したエレーヌは昼食の席にディミトリを呼び出す。ディミトリは全く元気が無かったが、いつも通りきちんと身なりを整えて現れた。
「お嬢様……この度は大変なご迷惑をお掛け致しました。思えば私も六十を過ぎ、そろそろお嬢様の足手まといになりつつあったのだと感じます。これを機会に私は一線を退きまして」
「この忙しい時に何をおっしゃるの? 貴方の代わりなど居りませんわ、それより見て頂戴、これが私の友人アリーセとそのお母様、テレーズ様の行動範囲ですわ」
エレーヌはランチテーブルの上にノートを広げて見せる。そこへポーラが駆け込んで来る。
「お嬢様、マナドゥ先生がいらっしゃってるのですが、その……屋敷からサリエルさんが倒れたからすぐ来るようにと速達電報が来たと、ですがそんないたずら、一体どなたが」
「その電報を打ったのは私ですわ。ちょうど良い所に来たわね、すぐお通しして」
エレーヌに騙された事を知らされたマナドゥは、仏頂面で伯爵屋敷の小ダイニングに現れた。
「ストーンハートさん……世の中には言ってはならない種類の冗談がありますよ」
「ああでも言わないと急いで来て下さらないでしょう? 今日は日曜日ですもの。普通のお医者様はお休みですわ……先生もご一緒に、これを見て下さるかしら?」
エレーヌはアリーセからその母テレーズの勤務先を、雑談の中で慎重に聞き出していた。体調を崩しやすいテレーズは、そのせいで安定した職場からはよく解雇されてしまうらしい。
そんなテレーズが勤められるのは安定しない職場だ。労働者の離職率が高い為、週に数日しか働けない者でも雇ってくれる、そういう所に勤めざるを得ない。
そして往々にしてそういう職場は、労働環境が劣悪だったりする。
「ディミトリはこれらの会社の経営実態を調査して頂戴。頼りにしてますわ。マナドゥ先生は昼食は召し上がられたかしら? まだでしたらどうぞ、ご一緒に召し上がって。その後で現場を訪問してみては如何かしら。日曜日の今日は都合が宜しい筈よ。トマと、あともう一人近所の小悪党、いえ下男を案内につけますわ。これも貴方が主治医となられた患者さん、テレーズさんの治療の役に立つかもしれませんわ」
マナドゥは勿論抗議しようと思ったのだが、ふとすぐに気を変える。今日は本当は朝から釣りに出掛けるつもりだったのだが、積雪の為に中止になったのだ。
今から起きる事は、もしかしたら釣りと同じくらいには楽しいかもしれない。
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エレーヌは自分には労働は似合わない、後の事は知らないから勝手にするがいいなどと言い、昼食を先に終えると自室に帰って行った。
一方マナドゥがトマに頼まれて昼食後も暫く屋敷の居間で待っていると、先程の小さなメイドが戻って来て言う。
「あの、お車の準備が出来ましたので……ああいえ、トマさんのご友人が来られたので、ロータリーの方にお越しください」
そしてマナドゥとトマがロータリーに出てみると、案の定そこには蒸気自動車に乗ったナッシュが待っていた。
「ようトマ、あれっ? 先生も一緒かい? まあちょうどいいや、先生が一緒の方が話が早いだろう。トマから話は聞いてるかい? 念の為道々話そうか」
ナッシュは、まるでマナドゥがここに居る事を知らなかったかのようにそう言って、マナドゥに例の蒸気自動車の後部座席を勧める。
マナドゥは友人であるトマの方をちらりと見て苦笑する。トマはもうマナドゥがナッシュの正体を知っていると気づいていたが、敢えて何も言わず、自動車の助手席に乗り込む。
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日曜日の街を蒸気自動車が行く。
昼過ぎから降り出したのは雨ではなく雪だった。幌屋根もついていないこの蒸気自動車の快適性はマナドゥの二輪馬車にも大きく劣っていた。
「この車、フードをつけないんですか?」
「俺はつけてくれって言ってるんだけど、自動車屋が断りやがるのよ、これはそういう車じゃねえ、自動車競走に出て勝つ為の車なんだってよ」
やがて車は運河通りの大きな倉庫の一つの前で止まる。
「マッチ工場は今日は休みか。ここの労働者は殆ど女工さんらしいな」
「近年ではそうでもないと思うよ、男性も居るし昔ほど酷くないと聞くね」
「工員への健康被害が問題になり、黄リンを使ったマッチの製造が禁止されましたからね」
ナッシュは工場の施錠されていない通用口を開け、堂々と中に入って行く。トマも黙ってついて行くので、マナドゥもそれに続く。
「だけど黄リンのマッチを欲しがる奴はまだ居るし、煙草店では黄リンのマッチも引き続き手に入る、そうなんだろ? アリーセの駕籠の中には無かったが」
「黄リンのマッチをまだ製造している工場があり、ここもその一つかもしれないと貴方はおっしゃるんですか? しかし……」
「ナッシュ君、近年は労働者が自分達の生きる権利を求める声も大きくなっている、そういう事があれば労働者が黙っていないと思うんだが」
三人はマッチの製造ラインや製品の在庫、倉庫の原料などを見て回る。
「うん……問題無さそうだな」
そして、だいたい作業場を一通り見回す事が出来た頃。
「そ……そこに居るのは誰だ!」
工場の事務室と思われる扉の影から、小柄な男が恐る恐る顔を出してそう叫ぶ。
「よし、逃げよう」
「ちょっ……何ですって!?」「マティアス、早く」
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「聞いてませんよ! 私はあの工場に不法侵入していたんですか!?」
三人は慌てて車に戻る。蒸気自動車は一度エンジンを止めると再始動に時間がかかるのが難点なのだが、それを根本解決するのが人力で車を始動出来るペダルだった。抗議するマナドゥに、必死にペダルを漕ぐナッシュとトマは息を切らしながら答える。
「先生、これも、医療の為だよ!」
「すまん、マティアス、僕は、ナッシュ君には逆らえん」
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次の現場はクリーニング工場だった。鍛冶屋通りの裏の町中にあり、日曜日も操業している。この仕事も多数の薬品を扱う。
特にドライクリーニングは毛織の衣料も洗濯出来て便利なのだが、様々な有機溶剤を扱う為、作業者の健康を損ねる場合があると言う。
「どうしてテレーズみたいな健康に不安のある人が、こういう職場ばかり選んで働くんだろうな」
「ナッシュ君、その問題は難しいんだ。健康に不安があり長期間勤務出来ない人ほど、他の人がやりたがらない不安定な仕事に追いやられてしまうんだよ」
三人は堂々と作業場を歩いて行く。ナッシュなどは視線を向けて来る女工達に挨拶までする。
「ああ、ご苦労さん。そっちは廃剤タンクか、きちんとしてるじゃないか。どうです先生? 何か気づきましたか」
「……確かにきちんとしてますね。今現在健康を害してる人は見えませんし、溶剤の扱いも適切に管理されているようです。この工場は優良ですよ」
ナッシュとマナドゥはひそひそと話しながら工場の隅々まで歩き回る。そうしているうちに、さすがに不審に思い出した女工が呼びに行った、管理職と思しきスーツ姿の男が近づいて来る。
「先生、まずい、行こう」
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クリーニング工場の支配人は自分の自転車を漕いで結構な距離を追い掛けて来たが、今回はトマが少し早めに外に出て蒸気自動車のエンジンを駆けておいたので、振り切る事が出来た。
「次は印刷工場か、何が問題になるんだ?」
「カラー印刷の塗料かな……絵具も色によっては猛毒だと言うからね」
「以前新聞の輪転機を扱う職人を診察した事があります……その方はインクのついた指を平気で舐める癖があって」
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続いて三人が訪れたそこは、新聞などの大量の印刷物を扱う工場ではなく、ポスターや製品パッケージを印刷する中規模な工場だった。
「今度は休業で良かったですね」
「へへっ、調子が出て来たね先生」
「だけどここは問題が無さそうだよ。あの砂目石版を使った印刷は熟練工じゃないと出来ないんじゃないか、テレーズさんは短期採用なのだし」
三人は作業場の方々を調べるが、毒性のありそうな塗料はきちんと整理して保管されており、軽印刷機の方も専門家でないと動かせないような複雑な機械のようで、この工場も、不当にテレーズの健康を奪うような事はしていないように見えた。
しかし。
「待って下さい。ここは酷い臭いだ」
その印刷工場の作業場の裏にその空間はあった。そこは作業に使うエプロンや手袋が干してある、小さな裏庭のように見えた。そこには流し場もあり、恐らく色素で汚れたエプロンをここで、作業助手が洗う手筈になっているのだろう。
マナドゥはそこでハンカチで鼻を覆い、眉を顰めた。
「塗料を洗っている洗い場だから、まずいのかい? 先生」
ナッシュの問いにマナドゥは首を振る。
「違います、この水路の反対側、これは隣の工場ですか? この臭いは亜硫酸ガスです、酷いですよ、何かの煙突が全部こちらを向いている……テレーズさんを苦しめているのはこの隣の工場の排煙かもしれません」




