マッチ売りの少女アリーセ 第三十八話
如何に高名な藪医者でも視力検査で人をどうにかするのは無理だろうとトマは思うのだが、エレーヌはどうしてもアリーセに付き添うと言う。
教会から診療所までどのように移動するかと思えば。ダニエルは馬車も何も呼ばず、ただ走って行く。しかもそのスピードが速い。
「待ちなさいッ! アリーセが、ついて、これない、でしょう!?」
「や、これは失敬! 気にするな、準備もあるから後から来てくれて構わん!」
「トマ! アリーセと、後から来て! 急がなくて、いいから!」
エレーヌは礼拝用の重いドレスやブーツに苦労し息を切らしながらも、疾走するダニエルについて行く。
◇◇◇◇◇
ダニエルの後を追い診療所についたエレーヌは、彼の準備を見守る。ダニエルは最新式の視力検査表と言ったが、それはただの妙なポスターに見えた。そこには大小様々なCの文字が倒れたり引っくり返ったりした物が描かれている。
「準備はこれだけですの?」
「いや、これもある」
ダニエルが持ち出して来たそれを、エレーヌは非常に小さいフライパンだと思った。そんな物を何に使うのか。
やがてアリーセとトマも後から追いついて来る。アリーセは少し息を切らしている。彼女は少し痩せ気味ではあるものの元気な少女のように見えるのだが、走るのはあまり得意ではないのだろうか? エレーヌはそう思った。
「では問診から始める! アリーセ、君は目がよく見えないと思う事は無いか?」
「い、いいえ、大丈夫です、私はちゃんと目が見えます!」
「ふむ、ちゃんと見える、と」
ダニエルはそれをただちに真新しいカルテに書き込む。トマは心中頭を抱える。彼のいい加減な問診ぶりを見て、エレーヌの表情が曇って行くからだ。他にも、頭痛はしないか、体に気になる所は無いかなど、アリーセが全ていいえで答えた内容を、ダニエルはそのままカルテに書いて行く。
「では視力検査を行う! アリーセ、その目隠しで片目を隠して、この視力検査表を見るのだ。いいかね? この輪は上下左右、どちらに切れ目があるかね?」
ダニエルは一番大きなCの字を棒で指し、アリーセに回答を求める。アリーセがそれに正解すると、それの次に大きい別のCの字を指して質問を続け、それを繰り返す。
「ふむ! 今度は反対の目に目隠しをしたまえ!」
ダニエルとアリーセは反対の目でそれを繰り返す。そして。
「アリーセ君! 君の視力は若干弱いが眼鏡が必要な程では無いようだ! 問題無し! 帰って宜しい。私はもう往診に行かねばならんので、診療費の請求はまた今度にさせて貰う、ではさらばだ」
ダニエルはそう言ってカルテに何事か記入すると、早くも立ち上がり診療鞄の蓋を閉め、それを肩に掛けて立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと! お待ちなさい、これで終わりですの!?」
エレーヌはさすがにそれを引き留めようとしたが。
「勿論これで終わりだ! 何だね君は、診るなと言ったり診ろと言ったり」
「み、診ろとは申し上げませんわ、ですがこんな簡単な診療で問題無しなんて、貴方それで診療費を取るつもりですの!?」
「……私の初診料は五十サンクだ。この地区にはそれすらも払えない者も多いが、私も最低限それだけは取らないとこの診療所も維持出来ない」
「金額の問題じゃないわよ! アリーセのお母様は心配しているのよ? アリーセの目がよく見えないのではないかと……」
「だから今検査した! アリーセの目は見えている、問題無い!」
ダニエルはそう答え、立ち塞がるエレーヌを迂回して診療所を出て行こうとする。そこに立ち塞がったのはトマだった。
「待って下さいダニエル先生、先生ご自身もおっしゃいました、テレーズさんはアリーセの目が特に夜は見えないようだと言っていると」
それを聞いたダニエルは天井を見上げ……少しの間沈黙した後で、持ち上げかけていた鞄を再び床の上に落とす。
「そうだな。テレーズはそう言った」
「先生、カーテンを閉めて暗くしますから、もう一度アリーセさんの視力検査をして下さい」
「あ、あの、トマさん、私本当に大丈夫ですから!」
「アリーセ君! その青年の言う通りだ。本当は君はその検査をしなくてはならないのだ」
カーテンを閉めて暗くした診療室で、ランプを二つ三つ灯し、検査は再開された。
ランプはどれも古風なオイルランプだったが、エレーヌやトマにとってはそれは視力検査表を見るには十分な明かりだった。
しかしアリーセは、上から三段目ぐらいのごく大きなCの字の切れ目すら見る事が出来なくなっていた。
「残念だが、アリーセ君の視力は極めて悪いと言わざるを得ない」
「貴方ねえ! 本当はこうなるのが解っていたんじゃないの!? お母様から聞いていたのでしょう、アリーセの視力は暗い時に良くないのだと、何故それを! 気づかなかった事にしようとされましたの!?」
肩を落としたダニエルに。エレーヌはそう行って食ってかかる。
ダニエルは目を伏せたまま答えた。
「君の言う通りだ。私は……あまり腕の良くない医者だからな。アリーセの視力が夜だけ悪いと言われても、何故そうなっているのか全く解らん。私に解るのは、アリーセの目は昼間は見えているという事だけだ」
「なっ……何をそんな無責任な事を」
「伯爵令嬢! 貴女には解らぬ、貧しい者は働かなくてはならんのだ! アリーセの目は明るい時は見える、だったら明るい時は働けるという事だ! 貧しい者がより良い生活をしようと思ったら働くしかないのだ、そして私は彼女を完璧に治してやれる知識も魔法も持っていない」
ダニエルはそう言って、酷く肩を落としたまま、診療室の壁際の小さく区切られた薬棚の方に向かう。そして普段は助手に任せる調剤を自力で始める。
「何をしてるのよ」
「アリーセ君に処方する薬を調合しているのだ」
「お待ちなさい! 何ですのこの異臭のする油は!」
「何をする! 邪魔をするな伯爵令嬢!」
「お嬢様おやめ下さい、先生が仕事中です」
エレーヌの妨害に遭いながらも、ダニエルは一本の小瓶に作った薬をアリーセに渡す。
「アリーセ君、この薬を朝昼晩のに三度、スプーン三杯分ずつ摂るように。飲み難ければパンに塗って食べても結構だ」
トマはその、ダニエルが作った薬の臭いに覚えがあった。夏の暑い盛りにストーンハート屋敷の庭の剪定をして、木陰でへばっていた時に屋敷の料理長ジェフロワが分けてくれた強精剤だ。
「あの、ダニエル先生、これは強精剤では……?」
「どんな病にも対抗出来る力、それは人間の生命力だ。だから私は人間の生命力を強める薬を処方するのだ。さあ持って行けアリーセ君、そしてすぐに試すんだ」
エレーヌはアリーセとダニエルの間に割り込んで叫ぶ。
「試すんだじゃないわよ! これで薬代を取るとおっしゃるの!? アリーセは本当に困ってますのよ!?」
「ベ、ベル、いいのよ、私この薬をいただいて帰るから! ダニエル先生は往診に行かないといけないし、私はお母さんの所に帰らないといけないから……心配してくれてありがとう、だけど私、大丈夫だから!」
エレーヌは思い悩む。安ければいいというものではない、それはアリーセが苦労して稼いだお金なのだ。強精剤としても効き目があるかどうかすら解らない物に、そんな貴重なお金を払わされるアリーセを黙って見過ごしていいものか。
だけど。ここでアリーセの貧しさをアピールしたり、金持ちである自分が診療費や薬代を肩代わりしようと申し出たりするのは、それはそれでアリーセに失礼な行為ではないかと思う。
「ごめんなさいアリーセ、私つい大声を出してしまって……ダニエル先生。往診に行く前にきちんと清算を済ませて下さるかしら」
◇◇◇◇◇
「ありがとうごさいました、ダニエル先生」
アリーセは自分の財布からダニエルに診察料と薬代を支払う。
立ち去り際に、エレーヌは振り返って尋ねる。
「一つだけ聞かせて下さるかしら……この薬、主成分は何ですの?」
「海鷂魚の肝油だ! 製法は私独自の物なので秘密である」




