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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの平凡な日々  作者: 堂道形人
マッチ売りの少女アリーセ

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マッチ売りの少女アリーセ 第三十七話

 話は一日遡る、土曜日の午後の事。


 往診は終わったが買い物は済ませられなかったマナドゥは、自分の診療所に急いで戻って来た。診療所の開業時間はもう終わっているのだが、彼が戻らないと看護婦が帰れないのだ。


「遅くなってすみません、お待たせしたでしょう」

「往診が長引いたのでしょう? それに待っていたのは私じゃないわ」


 看護婦はそう言って待合室を指差す。そこに居たのはあまり付き合いは無いが面識が無い訳ではない、医師仲間のダニエルだった。


「何とか間に合ったか、四時から往診が四件あるんだ」

「す……すみませんお待たせしたようで」


 ダニエルは少し待ちくたびれた様子だったので、マナドゥは一応一言詫びる。しかしマナドゥは別に何かダニエルと約束をしていた訳ではない。ダニエルが一方的に押しかけて来たのだ。

 そのダニエルが、マナドゥの姿を見るなり。


「すまんッ!!」


 大きく、頭を下げる。

 マナドゥは慌てて待合室のダニエルの元に駆け寄る。ダニエルはマナドゥより十歳ばかり年上で、やや線の細いマナドゥと比べると非常に肩幅が広く筋肉質である。


「どうしたんですか先生、よして下さい」

「どうか何も言わずにこのカルテを見て欲しい!」


 ダニエルは大変(せわ)しない男で、患者の治療も駆け足だし移動も駆け足、眠っている時以外は常に駆け回っている人物だった。今も、頭を上げたかと思えば次の瞬間にはマナドゥに数枚のカルテを押し付けていた。


 マナドゥは渡されたカルテに目を通す。マナドゥは正直な感想として、このカルテにはほとんど読む所が無いと思った。ダニエルのカルテは大変いい加減なのだ。


「見ての通りだ、三十八歳女性、夫は居ないが娘が一人居て貧しい暮らしをしている。そして俺の見立てでは結核けっかくで俺が余命と思っていた時期は過ぎた。だけど彼女はまだ生きていて、俺はそれを自分の延命治療のおかげだとは思っていない」


 そしてダニエルの物言いは大変率直である。


「マティアス。俺はもしかしたら彼女は結核ではないのではないかと思うのだ」

「カルテにも……そうありますね。先生の診立てでは如何なのですか?」

「解らん! 彼女は結核だが専門の治療院に入るような金はない、俺はそう思い彼女が生きている間は少しでも元気で居られるような投薬をして来た! 彼女は時々元気になって仕事にも行くのだが……また体を悪くして寝込む、それを繰り返している!」


 ダニエルは自分の鞄を漁り、別の書類の束を取り出す。


「そしてこれは彼女の医療費の記録だ、今年だけでこの額、これでは工場勤めの彼女とマッチ売りの娘には負担が重過ぎる!」


 そう言ってダニエルは天井を仰ぐ。マナドゥはダニエルから渡された年間の医療費の記録を見ていた。これは例えば伯爵令嬢にとってはミンクのコート一着分かもしれないが、貧しい暮らしをしている母子にはどうか。

 そしてマナドゥは改めて思う。町の人々は平気でダニエルの事を藪医者呼ばわりするし、伯爵令嬢などは死神とまで言い切るが……ダニエルの診療費は本当に安い。こんな物を見せられると、自分は患者から暴利をむさぼっているのではないかと思えてしまう。


「俺の診療費の安さは気にするな! 俺は格安の死神のようなものだ。テレーズに関しても正直治らないなら治らないで早く天国に行けばいいと考えていた……娘にいつまでも介護負担を掛けるくらいならな。しかし」


 あまりにも率直過ぎる言葉にマナドゥは絶句する。ダニエルを死神扱いしているのはエレーヌだけではなかったらしい。ダニエルは話しを続ける。


「彼女が本当は結核ではないのなら? 彼女が医者(・・)に診せれば治る病気なのなら……治らせてやりたいと俺も思うのだ。マティアス。どうかこの患者の主治医を君が引き受けてはくれないか。俺には彼女の病気が何なのか解らん……君の診療費と俺の診療費、その差額は俺が払う」


 マナドゥの心が震える。ダニエル医師は決して裕福ではない。ダニエルは大変な大食漢たいしょくかんだというが、彼が金を使うのは安い飯を大食いする時だけだという。


「お金の事は結構ですよ、私は……」


 マナドゥがそう言った瞬間。


「そうか!! 私と同じ診療費で君が引き受けてくれるという事でいいのだな!? 君ならそう言ってくれると思っていた、ありがとう! 私は往診に行かねばならん、さらばだ!」


 ダニエルはそう叫んだかと思うとすぐに立ち上がり、鞄を抱えて一瞬にして走り去って行った。



   ◇◇◇◇◇



 時間は戻って、日曜日の午前九時過ぎ、小さな教会の前の道で。


「アリーセ君の母、テレーズに関しては私より専門分野の近いマティアス・マナドゥ医師が主治医を担当する事になった。彼女に関して私が言える事は以上だ」


 エレーヌは拍子ひょうし抜けしていた。何としても勝たねばと思っていた戦いは始まる前に終わっていた。

 エレーヌがダニエルにテレーズの事を尋ねた瞬間、返って来た返事がこれだった。ダニエルはこれだけしか言わなかったので、何故そうなったのかについてはエレーヌには解らなかったが、とにかくそうなったのなら何の問題も無い。しかし。


「今度はアリーセ君だ。私は彼女の診療に関してテレーズから正式な依頼を受けている。アリーセ君! 私は九時半から往診に行かなくてはならないのだ、時間が無いからこのまま私の診療所まで一緒にたまえ!」


 ダニエルはそう言いアリーセの左腕を掴むと、そのままアリーセを連れ去ろうとする。


「ま、待って下さい先生、私、どこも悪くないです、必要ないんです!」

「君がそう言って診療を拒む事をお母さんはとても心配している! いいから来るのだ、すぐに済む!」


 診る前からすぐに済むなどと言ってしまうのは方便ほうべんなのか、それとも実際にすぐに済ませる気なのか。恐らく後者なのだろうなと、一緒に居たトマは思った。やはりダニエルは藪医者なのだと。

 エレーヌの方にはその光景がもっと恐ろしい物に見えていた。ぼろぼろのローブを着て巨大な鎌を持った死神が、幼い友人、アリーセの腕を掴みどこかへ連れ去ろうとしている。


「ま、待ちなさい、アリーセは要らないと言っているじゃない! 本人が不要と言っている事を何故するのよ!」


 エレーヌはアリーセの腕ではなく、アリーセの腕を掴んだダニエルの腕の方を掴み、それを止めようとする。


「貴女は伯爵令嬢。何故止める、私はアリーセの保護者からの依頼を受けたのだ」

「患者が必要ならうちのサリエルを診せますわ! アリーセからは手を引いて!」

「……私は別に患者が欲しい訳ではない。テレーズの依頼でアリーセを診る、ただそれだけだ!」


 アリーセはもう一方の腕で、自分の腕を掴むダニエルの手を拒もうとしながら、涙声で叫ぶ。


「御願いします! 私本当に元気なんです、咳も出ないし熱もありません、御願い、連れて行かないで下さい!」


 エレーヌは次の瞬間、自分のコートの懐に手を入れる。それを見たトマは慌ててそれを止めようとしたが間に合わなかった。


「お解りでしょう!? アリーセは嫌がってますのよ? 貴方がそれでも往来で堂々と少女をさらおうとなさるのなら、私にも覚悟がございますわ」


 エレーヌは懐から抜いた拳銃をダニエルに向けていた。

 さすがにこの騒ぎを何事かと見守り、取り巻いていた教会帰りの人々の輪がサッと広がる。


「何と言われようと。何で脅されようと……私は依頼された患者は診るッ!」


 ダニエルは目を見開くとエレーヌにぐっと顔を近づけ、彼女が突き付けて来た拳銃の銃口を自らのひたいで押し返す。


「待て! 待って下さい、やめて下さいお嬢様も!」


 トマは素早くエレーヌの拳銃の撃鉄を抑えて掴み、それをダニエルの額から背け、間に割って入る。エレーヌとダニエルはまだ狼犬と熊のようににらみあっている。


「ダニエル先生、何故テレーズさんはアリーセを診てくれと言うのですか」


 トマはそう尋ねた。


 エレーヌは単に、この死神は新たな生贄を欲しているのだと思っていた。

 アリーセはダニエルが自分にも長くお金のかかる結核の治療を行おうとしているのだと思っていた。そしてそんな事になっては母を助ける事も出来なくなり、借家からも追い払われ路頭に迷う事になると。


 ダニエルは答えた。


「アリーセが最近(ひど)く視力を落としていると、特に夜は壁を伝わないと自分のベッドにも行けない様子だと、テレーズが心配しているのだ! 私の診療所には最新の視力検査表がある。さあ来るのだアリーセ!」

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