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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの平凡な日々  作者: 堂道形人
マッチ売りの少女アリーセ

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マッチ売りの少女アリーセ 第十八話

 屋敷に戻ったエレーヌはごく普通に部屋着に着替え、ダイニングに行き極光鱒尽くしの夕食を堪能する。

 夕食は勿論何の問題も無い、満点の出来栄えなのだが……執事長のディミトリが居ない事が、エレーヌの気にかかる。


 エレーヌは昼間のディミトリの失態を密かに見ていた。


「ディミトリはまだ戻りませんの?」

「皆も心配してますわ。ご自宅の方にもいらっしゃらないの」


 ディミトリに代わって給仕を仕切っていたヘルダが答える。


「誰でもいいわ、もしディミトリに会ったら、私が水曜日の朝に御願いした事は撤回したいと言っていたと伝えて下さるかしら。それから、そうね……トマに、ディミトリを探しに行くように伝えて」


 極光鱒のクリーム仕立てのシチューを音もなくすくいながら、エレーヌはそう告げた。エレーヌの後ろに控えていたサリエルがピクリと震える。


「承知しました。早速伝えて参りますわ……ディミトリが居ないのは困りますもの」


 ヘルダはそう言って、ダイニングを去ろうとする。

 サリエルはトマへの対抗心を揺さぶられていた。お嬢様の最近のトマへの信頼感は成長著しいのだ。サリエルは素早く前に進み出る。


「お嬢様、ディミトリでしたら私が探しに行きますわ、ディミトリはあの……ミトンの件で思い悩んでおりましたもの」


 ミトンの購入命令を受けたのは自分とディミトリである。サリエルはその自負を持ってこれを願い出たのだが。


「ミトンの件?」


 ヘルダにそう聞き返され、サリエルは密かに震える。しまった。この話はお嬢様がわざわざディミトリと自分しか居ないタイミングで話された事だったのに。

 サリエルはちらりとエレーヌを見る。エレーヌは大好物の極光鱒を口にしながら、眉間に皺を寄せ目を伏せていた。


「サリエル、貴女には別の事を頼みますわ。気にしないでヘルダ。トマにことづけを御願いしますわ」


 この時エレーヌはエレーヌで、大声を出したくなるのを堪えていた。ディミトリには後ろめたい事ばかりだ。今日自分は意味もなく学校を休んでしまったし、ディミトリに出してしまった無茶な指令の事も後悔せずにはいられなかった。


 エレーヌは思う。それにしても梟の森のあの男性店員は何故、ディミトリの申し出に対しあんなにも激怒したのだろう。

 ディミトリは彼らしい誠実な仕事をして、最大限梟の森にとって魅力的な提案を用意し誠意を示し、その最後に強要という程ではない口調でミトンを購入させて欲しいと言っただけなのに。



 エレーヌは男性店員がディミトリに激怒した事件を知っていたが、何故激怒したのかは知らなかった。

 サリエルはもし問われれば男性店員がディミトリに激怒した理由に心当たりがあったのだが。サリエルの方はその事件そのものを知らなかった。



   ◇◇◇◇◇



 食事の後。エレーヌはサリエルを連れて自室に戻り納戸をあさる。


「ランプと三脚、この鏡も持って。フラッシュも……カメラは私が持つから触らないで!」


 これを一体どうするのか。サリエルがいぶかしんでいると、エレーヌはそれを持って一階へ向かう。そして。


「お嬢様……そこは御家族用のリビング……」

「そうよ? 何してるの早く来なさい」


 エレーヌは一階の、普段は近づこうともしない家族用リビングにすたすたと入って行く。




 家族用リビングにはクリスティーナの肖像画が飾られている。普段はこの肖像画が結界として働きエレーヌがこの部屋に入れないよう遠ざけているのだが、今日のエレーヌにはその効果は無かった。


「お母様。素敵なミトンを有難うございます。私本当に嬉しいんですのよ。もう少しだけわがままを言わせていただけるなら……私、このミトンをつけてお母様と二人で雪だるまを作りたかったですわ」


 エレーヌは祈るように手を合わせ、その肖像画に語りかけてまで見せる。サリエルは信じられないという風に目を見開き、それを見つめていた。


「さあサリエル。その照明スタンドを組み立てて。私はカメラを設置しますわ」


 エレーヌはサリエルに指示し、自らも働く。

 この家族用リビングはエレーヌやオーギュストのリビングと比べるとずっと狭く、半分以下の広さしかない。それは親子がなるべく近くで過ごせるように、敢えてそのような造りになっていた。

 そんなストーンハート家の家族用リビングで、写真撮影の準備が整う。


「カメラの扱い方を教えてあげますわ。必要な所だけ」

「はい、ありがとうございますお嬢様……」


 サリエルはエレーヌからカメラの手解てほどきを受ける。エレーヌから何かを丁寧に習った事など、サリエルの記憶にはほとんど無い。申し訳ないがディミトリを探しに行かなくて良かった。サリエルはそう思った。

 しかし今夜のエレーヌはそれでは終わらなかった。


「貴女が撮って下さるかしら」



 エレーヌは例のミトンを身に着けると、クリスティーナの肖像画の前でポーズをとる。


「は、はいお嬢様、撮りますわ……三、二、一……」


 サリエルは戦慄せんりつする。エレーヌが……エレーヌがついぞ見た事も無いような表情をしているのだ。

 いつもの狼犬のような表情とも先日垣間見せた恋する乙女のような表情とも違う。それはまるで、幼く無邪気な少女のような表情だった。ただしそれはサリエルが合図をしてからシャッターを切るまでのほんの数秒間だけ。


「続いて参ります……はい……三、二、一……」


 十二年間近習して来たサリエルが一度も見た事の無い、エレーヌの無邪気な笑顔。それは勿論作り物だというのはサリエルも解っているのだが。ついつい、この表情をもう少し見ていたくて、次第にシャッターを切る間合いが延びて来る。


「それではシャッターを押しますわ、お嬢様、もう少しお顔をお上げ下さい、宜しいでしょうか? では参りますわ、三……二……」

「ちょっと! もう少しテンポよくやって下さるかしら、この顔を続けるのは酷く疲れますのよ!?」

「申し訳ありませんお嬢様、では改めまして。三……二……一」



 家族用のリビングの奥には幼少期のエレーヌが使っていた小さな部屋がある。

 エレーヌは五歳になるまでこの部屋で過ごしていた。この部屋の隣には伯爵夫妻用の小さな寝室もある。

 サリエルは思う。この間取りは自分がかつて暮らしていた、ごく一般の庶民であるサルヴェール家の間取りとほとんど変わらない。当時伯爵夫妻は小さなエレーヌの為に、この広い屋敷の中の小さく区切られた区画の中で暮らしていたのだ。


「お嬢様、こちらでも写真を撮られるのですか?」

「……そうね」


 この部屋もエレーヌはあまり好きではないらしく滅多に近づかない。少なくともサリエルはそう思っていた。


 この部屋からは庭にそのまま出られるのだが、そこは小さく区切られた見事な芝生の庭で、半年間……サリエルが初めてこの屋敷に連れて来られてから、クリスティーナがエレーヌの誕生日を機に屋敷を出て行くまで……半年間。エレーヌとサリエルが、本物の姉妹のように過ごした場所だった。


 今となっては信じられないが、その頃は自分もこの部屋に寝ていたのだ。サリエルはこの部屋にエレーヌと同じモデルの子供用ベッドを置いてもらって、一緒に寝起きしていた。


 壁の落書きも当時のままだ。うさぎとかめ。象にライオンにゴリラ、七人の小人の妖精……皆エレーヌが描いたものである。

 エレーヌはここでもミトンを身に着け、五歳の頃と同じような無邪気な表情を見せる。

 サリエルはエレーヌに言われた通りカメラが揺れないよう、そっとシャッターを切る。



「随分撮ったわね……さすがにもういいわ」


 エレーヌはそう言って、憂鬱そうに少しの間眉をひそめると、うさぎのミトンをそっと手から外し、別の袋に入れて大事にしまう。


「素敵な御写真がたくさん撮れたと思いますわ……もしかして、お母様に御送りになるのですか?」

「折角ですもの。本当は直接見て欲しかったのですけど、お母様はお忙しいから」


 サリエルはずっと暖かな気持ちにひたっていた。エレーヌがこんなにも素直に母親への慕情ぼじょうあらわにするのは五歳の頃以来だ。


「あの……お嬢様。以前から思っていたのですけれど……お嬢様は何故レアルには行かれないのですか?」

「レアルはこの前の夏、汽車の乗り換えで行ったわよ」

「そうではなくて……お父様もお母様も、御一緒ではありませんけれどレアルにいらっしゃいますわ、あちらにいらっしゃればその……お二人にお会い出来る機会も増えるのではないかと」


 サリエルは自分でそう言いながらも、途中からエレーヌの答えに気付いていた。

 エレーヌは両手を腰に当て胸を反らす。


「それでは何方どなたがこの田舎屋敷を守りますの? 皆、私が居ないと何も出来ない者ばかりですのに。私は伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハート、この屋敷を守るのも私の務めですわ」

「ありがとうございます、お嬢様」


 目礼するサリエルの前を、エレーヌはカメラを抱えて通り過ぎる。


「照明スタンドを片付けてらっしゃい。それから……ちょっと出掛けないといけませんわね」


 サリエルは一旦は言われた通りスタンドを片付けようとしたが、すぐにそれをやめてエレーヌを追い掛ける。


「お待ち下さいお嬢様、出掛けるには遅過ぎますわ、こんな時間に一体どちらへ」


 エレーヌは立ち止まらず、家族用リビングを通り抜け、廊下へと出て行く。サリエルも追従する。


「何よ。何もまたアンドレイの屋敷に忍び込もうってんじゃないわよ。貴女あの時は出掛けろ出掛けろとうるさく言ったじゃないの、遅い時間だというのに」

「あれは……違いますわ! 私は大尉を追い掛けて下さいと申し上げたのです、まさかローゼンバークの屋敷に忍び込もうだなんて!」

「大きな声出すんじゃないわよ! 誰かに聞かれたらどうするのそんな話!」

「申し訳ありませんお嬢様」


 ホールから階段へ、エレーヌはカメラを抱え歩いて行く。それは三脚込みで十五キログラムぐらいはある重量物である。


「お嬢様、今夜はディミトリもまだ戻っておりませんしお嬢様まで居なくなっては皆が心配致しますわ、どうか御願い致します、お出掛けは明日になさって下さい」

「貴女何か都合の悪い事でもあるの?」


 階段を登りきり、廊下を進む二人。


「都合という事はございませんが……いいえ、私もオーギュスト様からお嬢様の側仕えを任された身でございます、お嬢様がこんな夜更けに出掛けようとなさるのなら、おとどめしない訳には」


 そして自分の区画の前の両開きの扉の前まで来て、エレーヌはようやく振り返る。


「そういうの要らないわよ、何度も脱走しようとしたくせに。私、貴女に何か一緒について来れない理由でもあるのかと聞いてるのよ」

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