マッチ売りの少女アリーセ 第十四話
「貴女自分が船長だとおっしゃるの? だけど貴女おサルさんじゃない。じゃあこの棒、これをマストだと思って登って見せて下さる?」
「キキッ、キッ、キー……」
「どうして急に倒れるのよ、なんですって? 船酔いが酷くて立ち上がれない? 貴女船長さんではございませんの!? それにここは本当は船の上ではなくてよ、ここは金曜日の暇人が集まるカトラスブルグの公園ですわ!」
夕闇迫る市の中心部の公園には昼間よりはいくらか人通りが増えていた。土曜日も休みになる仕事に就いている人間にとっては心躍る週末の夕方である。
そんな公園の広場の一つに猿回しの芸人が来ていた。穏やかで風光明媚な南部の沿海州から来たというその一座は、不精ひげの男とマリーという名の小ざるのコンビだったのだが、今日はそれに街の伯爵令嬢が加わったトリオになっていた。
一座の芸は二十分程度の短い舞台仕立てになっていて、つまるところは小ざるのマリーが箱から箱へ飛び移ったり、宙返りでハードルを飛び越えたりしてみせるものだ。それに人間の演者との息の合った小芝居を加わえ、人々の笑いを誘う。
「それではこの箱から箱に飛び移っていただけるかしら? さあ」
エレーヌが促すと、小ざるのマリーはエレーヌの膝に手を当てて首を振る。
「え? 何ですって? 間隔が広いですって? あのねえ貴女、この箱から箱への距離が、皆様の声援の大きさに、ひいては頂けるかもしれないチップの大きさに直結するんですのよ。え? だけど疲れたからこんなに飛べない? 仕方ないわねえ、じゃあもう少し短くして差し上げますわ。あらマリーさん、あれは何かしら!?」
エレーヌが指差すと、小ざるのマリーは箱から目を逸らす。その間にエレーヌは二つの箱の距離をうんと遠ざける。
「キィー、キィー」
「何も見えないですって? 変ねえ、今そこにピンクのタキシードを来たワニがいらっしゃったのに。じゃあマリーさん、少しだけ箱を近づけますわ」
エレーヌが少しだけ二つの箱の距離を近づける。
「これでいいかしら? いい? じゃあ飛んで下さる?」
小ざるが納得して箱の上に登ると、周りの観客からささやかな失笑が漏れる。
「シーッ、内緒ですわ、皆さま」
エレーヌは観客に向かって囁くような素振りをみせる。
◇◇◇◇◇
「七、八、九……七フラムと八十九サンク、まだ半分にも足りませんわ……」
帽子の中の小銭を数えたエレーヌは絶句する。
太陽は街並みの西の向こうに姿を消した。
「あの……お嬢さん、さっきの二十フラム紙幣でしたら、お返ししますので……」
「キィィ、キィ……」
不精ひげの男は困り顔で眉をハの字にして揉み手をする。マリーは実際にエレーヌに二十フラム紙幣を差し出す。
「それはあなた方の物ですわ! その代わりこの皆様のチップは三等分していただきますわよ!」
昼間、気まぐれを起こしたエレーヌは、この一座への仲間入りを申し出て、断られるとそのまま居座り客寄せを手伝い出した。
人目を引く容姿で声も大きいエレーヌは実際客寄せにも向いていて、客は不精ひげの男が呼ぶ時よりも多く集まった。
さらにショーの小芝居の部分をエレーヌがやってみると、若干だがチップの量が増えた。
それでも、金額はエレーヌが目標としている十七フラムには遠く及ばない。
「新技術に投資したり、既存の事業を組み合わせて企業や地域経済を発展させるのは造作も無い事ですのに。小銭を稼ぐのは、とても大変な事ですのね……」
エレーヌは溜息混じりに、小銭の入った帽子を不精ひげの男に渡す。
不精ひげの男と小ざるのマリーは顔を見合わせ、頷き合う。
「あの……今日はお手伝いいただきありがとうございました。ともかく二十フラムはお返ししますし、チップは全額三等分しますので……」
「ですからその二十フラムはもうあなた方の物ですのよ! チップも私の分は私が関与した三公演で得た十九フラムと二十三サンクの三分の一、六フラムと四十一サンクですわ」
エレーヌが参加した三公演の収益額は一サンク残らずエレーヌの頭の中に入っていた。
不精ひげの男はその事にも舌を巻きつつ続ける。
「今日は金曜日にしてはお客さんが多かったですよ。勿論お嬢さんのおかげです、普段の金曜日は十五フラム行くかも怪しいんです、午前の分と合わせて我々にはもう十分な稼ぎがありましたから」
「キィー。キキッキー」
小ざるのマリーも腕組みをして頷く。
地面に屈みこんで小銭を数えていたエレーヌは、拳を握って立ち上がる。
「もう一公演致しましょう。人通り増えてますしこれからですわ! きっと先程までより多くのチップが集まりますわよ!」
「キイィ!? キキッキ、キキィ!」
マリーは慌ててエレーヌに駆け寄り、その膝にすがりつき懸命に首を振る。
不精ひげの男はますます背中を丸め揉み手をして、エレーヌから目を逸らしたまま呟くように言う。
「あの、マリーちゃんも疲れてますので……それにもう日が暮れてしまいましたから、いくら通行人の数が増えてると言っても……うちの芸は明るいところじゃないと出来ないし、実際暗い所で演っててもお客さんは足を止めません、こういうのは陽気じゃないといけないんですよ」
エレーヌは辺りを見回す。確かに。公園には夜も歩ける程度には街灯があるものの、劇場の舞台照明の明るさには程遠い。
そして写真術をかじっているエレーヌ自身にも解るのだが、照明というのは光源が複数無いと濃い影が出来てしまう。
一本の街灯の真下で猿回しを演じた場合、小ざるの顔にも自分の顔にも濃い影が生じ、観客から見るそれは昼間とは別の前衛的な芸術になってしまうかもしれない。
「じゃあどうすればいいの……そうですわ! 場所を変えるのよ、戦勝記念通りのバルタザールの店があるロータリー、あそこなら複数の照明に囲まれていてとても明るいですわ、人通りも多いし」
「だめですお嬢さん、私ら大道芸人にもやっていい場所と駄目な場所があるんです、あそこで何か演るには市の許可が要るんです」
「市の許可ですって!? そんなもの、私が……」
そこまで言い掛けて、エレーヌは口籠る。
自分は伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートである。市の役人が来ようが、地元の興業を仕切っているつもりのちんぴらが来ようが、そんな物は伯爵家の威光を見せれば一息に吹き飛ばせる。
だけど、今回はそれでは意味が無い。
エレーヌは思う。恐らくこういった事情はアリーセにもあるだろう。人が居ると解っていても近づけない場所、守らなければならない縄張りの範囲、あの煙草売りだってそういう制限の中でやっているに違いない。
時間だってそうだ。病気の母の介護の都合もあるだろう。きっと、好きなだけ煙草を売り歩いていいというものではないのだ。
何も解決していないまま。気まぐれに、十七フラムを自分の手で稼いでみようという思惑さえ、失敗に終わってしまった。
エレーヌは小さな溜息をつき、肩を落とす。
「いいえ……理解しましたわ。それでは六フラムと四十一サンク、私の分としていただけるかしら」
「え……ええ。あの、今日は本当にありがとうございました、お客さんが増えた事も嬉しかったですが、お嬢さんと一緒にいて楽しかったです、ねえマリーちゃん」
「キキ。キイキイ」
不精ひげの男はそう言って、エレーヌにフラム紙幣六枚と五十サンク硬貨一枚を渡す。
「お待ちなさい、私の取り分は六フラムと四十一サンクと申し上げたはずですわ」
「へえ、九サンクはチップでございます」
「あ……ああそう、チップですのね、それならば有難く頂戴致しますわ」
エレーヌは素直に六フラムと五十サンクを受け取り、手を振って帰って行った。
「疲れましたね船長……おかしな一日でしたよ」
「キィッ、キィキィ……」
不精ひげの男は箱を、小ざるのマリーは観客との仕切り線に使っていたロープを集め、袋の中にしまって行く。
「でもまあ今日の稼ぎは金曜日にしては上々、どうです? 夕食は景気よく!」
「キーィッ! キキッキキィキィ!」
「駄目? 万一の時に備えて貯金しろ? そうですね、すみません……」
不精ひげの男は小ざるにペコペコ頭を下げ、商売道具をしまった袋と小ざるを肩に担ぎあげると、公園を立ち去って行く。




