マッチ売りの少女アリーセ 第十三話
サリエルはじっと、自分の掌を見つめていた。
水仕事も多く洗剤に触れる事も多い家政婦を生業にしている割に、サリエルの手はほとんど荒れていない。彼女の女主人はとても優しく、側仕えの自分の手荒れの心配までして、ハンドクリームを欠かさず支給してくれるのだ。
しかし見た目は汚れていないその手に、今はびっしりと汚れがこびりついているような気がしてならない……人の家や商店に忍び込んだり、偽造した診断書を学校に提出したり……自分の手はすっかり悪に染まってしまったのではないだろうか。
サリエルは瞳を閉じ、静かにかぶりを振る。自分ごときの汚れが何だと言うのか。すべてはお嬢様の為である。
馬車が来ないので今日の彼女は歩いて下校していた。そして教会通りから戦勝記念通りへの曲がり角を曲がる……
サリエルはその歩道の角を見つめ、思い出す。一時期リシャール大尉がここで歩哨に立ち登下校する女生徒達を見守っていた。ほんの二、三ヶ月前の事なのに、なんだか随分昔の事のような気がする。
金曜日の夕方。日はかなり傾いている。夜がとても早くなった……それはそうだ。もう冬至も近い。街に電灯が灯りだす。
人通りの多い華やかな大通りの歩道を静々と歩くサリエル。その姿はよく人目を引く。長身で非常にスタイルが良く、姿勢も身のこなしも都会的で洗練されている。そんな少女が、整った美貌を憂鬱に染め、ぼんやりと歩いているのだ。
すれ違った後で振り返って彼女の後姿を見つめる男も多い。
ただこの時は幸い、彼女の周りにはよく現れがちな不逞の輩は現れなかった。サリエルは誰かに声を掛けられる事もなく、歩道を行く。
サリエルの足がふと止まる。そこは例の店……女性用の服飾や雑貨を扱うテーラー『梟の森』だった。
そのショーウインドウには電灯が灯っている。まだ辺りもそんなに暗くないので、少し気が早いような気がしないでもない。
あのミトンは……やはり、そこにあった。ミトンがそこにある……
その事に気付いたサリエルは戦慄する。考え事に耽るあまり、自分は今絶対に近づいてはいけない場所に近づいてしまった。
自分はここに二回忍び込んで失敗しているし、その前にも来店している。あの男性店員には銃まで向けられたのだ。
最初の来店時は召使いの格好をしていたし、男性店員は居なかった。
夜中に忍び込みに来た時は恥ずかしい変装までしていた。だから今の姿を見られてもあの盗賊だとはバレない可能性もあるが、今そんなリスクを冒してここに居る理由は何もない。
急いでここを離れなくては。サリエルがそう考えた瞬間。
「こんにちは! お気に入りの物はありました?」
背後から明るくそう声を掛けられ、サリエルは小さく飛び上がる。
サリエルが恐る恐る振り向けば。そこに居たのは先日見たのとはまた別の、若い女店員だった。
「この、うさぎのミトン……素敵ですわね」
サリエルは思わずそう答えてしまった。女店員の表情がぱっと輝く。
「私もこれはとってもいいと思うの! うさぎが面長で可愛くないなんて言う人も居るけど、絶対そんな事ないんだから。このミトンと一緒ならきっとどんな吹雪も冷たくないわ。展覧会で賞を取った有名デザイナーの手編みで、ちょっとお高いんだけど……それに、貴女の手には少し小さいかもしれないわ」
女店員は明るく正直な様子でそう言った。
「え、ええ……私用ではなく、妹のプレゼントにどうかと思いましたの。お値段も……年に一度の事ですし、ちょっと奮発するのも宜しいかしらと……」
サリエルは震えを抑えてそう応えた。慌てて走り去るのも怪しまれるかと考えたのだ。しかし女店員はサリエルのそんな様子には全く気付かなかった。
「まあ、それならきっとぴったりよ! 今だったらプレゼント用のラッピングも無料なのよ! 如何かしら?」
「そうですの? そうね……それじゃあこれに決めようかしら……」
「どうぞ、店内にいらして! メッセージはどうする!? メッセージカードに印字するタイポグラフィも無料なのよ!」
「そう……でしたらエ……エリーゼのために、で……」
サリエルは陽気で少し強引な、この店の雰囲気とはちょっと違うような女店員に手を引かれ、梟の森へと連れ込まれて行く。
◇◇◇◇◇
「ありがとうございました! また来て下さいね!」
五分後。店から出て来たサリエルは放心していた。
以前見た女性店員も男性店員も、今日は店内に居なかった。
そしてサリエルの手にはプレゼント包装を施されたうさぎのミトンがあった。
あんなにも近くて遠くにあったミトンが、今は自分の手の中にあるのだ。
信じられない。普通に買えてしまった。どういう事なのか。
サリエルは深呼吸をして考える。
どうという事はない。きっと前の予約客が予約を取り消したのだ。
もしくは店が同じ物をもう一つ作らせたのか。それも有り得る。伯爵令嬢があんなに欲しがったのだから、店の方もこの商品は増産に値すると判断しても不思議ではない。
とにかく、普通に買えた。不正な手段も使っていない。ちゃんと代金の十七フラムも払ったし、念の為領収書も受け取った。このミトンは正当な売買契約を経てサリエルの物になったのだ。
素敵なラッピングを施され、エリーゼのためにというタイポグラフィの印字メッセージまで添えて。
サリエルの心の中でファンファーレが鳴る。
「おめでとうサリエル、やはり困った時に本当に頼りになるのは君だな」
「凄いなサリエル、お嬢様の一番の忠臣は僕ではなく君さ」
ディミトリが、トマが、拍手でサリエルを祝福する。屋敷の十人の他のメイド達も皆笑顔で拍手を送る。筆頭庭師のエドモン、料理長のジェフロワ、二人の弟子達、執事見習い……皆に囲まれ、万雷の拍手を浴びるサリエル。
現実のサリエルは戦勝記念通りをスキップ混じりに足早に駆けて行く。先程までは憂鬱に染まっていたその顔は晴れやかな笑顔へと変わっていた。
大事なプレゼントは通学鞄の中にしっかりとしまい込んだ。絶対に落としたりしないように。
伯爵屋敷への家路を急ぐサリエル。そのお花畑となった脳内ではサリエルに対する家人達の祝福がいつまでも続いていた。
何故かその脳内の祝福劇の中にはエレーヌは出て来ないのだが、サリエルはそんな事にまでは気付かなかった。




