弁護士クロヴィス・クラピソン 第二十九話
多くの村人が、バイヤール家の館の前に集まっていた。バイヤール家の家臣だった者もそうでない者も。バイヤール家は長年、この村の象徴であった。
集まって来た者の中に、村の目抜き通りで宿屋を営んでいた女将も居た。彼女はクロヴィスから視線を逸らしながら、申し訳無さそうに言った。
「そこの弁護士さんの事は連中から聞いていたよ、バイヤール家の財産と誇りを奪おうとやって来た、レアルの資本家の手先だと……あたしにゃそんな風には見えなかったけれど……男爵の取り巻きはもう、そんな古臭い頭でっかちばかりだったんだ」
たちまちいくらかの村人の抗議の目が、その女将に集まる。しかし実際に女将に抗議の声を上げる者は居なかった。
「他所でも働けるような人はとっくに他所に移り、残ったのはそういう連中ばかりだった。男爵家の名を借りて威張り散らし、馬車をすっ飛ばして、子供を撥ねても頭も下げられない奴ら……そうなんだろ? そのくせ気が小さいもんだから、あの弁護士に何百万フラムも巻き上げられるんだって震えあがって」
村人達は想像以上に事件の事を良く知っていた。クロヴィスは溜息をつく。
「冗談じゃない。馭者達と男爵がきちんと謝罪してくれれば慰謝料は取り下げる事も出来た。怪我をした少年の治療費と働けない期間の休業補償で千フラム弱、落とし所はその程度だと思っていた」
その時。重くどんよりと沈んだバイヤール家の館の前の人だかりの中を、甲高くよく通る声が、雷鳴のように駆け抜けた。
「不様ですわね」
それは伯爵令嬢、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの一声だった。
聖ヴァランティーヌ学院の制服に身を包んだ彼女の出で立ちは彼女が連れている側仕えのメイドのサリエルと同じ物ではあったが、彼女から自然と発せられる雰囲気、威圧感は常人のそれとは全く違っているようにも見えた。
「養う事が出来ないから家臣を手放す。有能な者から逃げて行き無能な者が残る。そうして残った無能な者達を制御出来ないからこんな事件が起きて、考えが足りないから彼等を連れて逃げ出してしまった。そのような有様では、遅かれ早かれこうなっていたのですわ」
エレーヌが冷酷にそう言い放つのを誰もが聞いた。
サリエルは青ざめる。止める暇もなく、彼女の女主人はまた、大変な悪態をついてしまった。恐らく男爵家の家臣達の横暴に手を焼きつつも、男爵を村の象徴として慕っていた、スリテア村の住人達の前で。
「……それは違う」
そこで口を開いたのはクロヴィスだった。
エレーヌは一人で伯爵家の馬車に戻ろうとしていた。クロヴィスはそのエレーヌから、スリテア村の群衆を挟んだ向こう側に居た。
「彼等は彼等で押し寄せる新しい時代に、彼等のやり方で立ち向かっていたのだろう。勿論誤りであった部分もあると思う。だが彼等はバイヤール家の苦難と戦おうとしていたのだ。長年、バイヤール家の禄を食んで来た者の末裔として、今こそバイヤール家の恩義に応え、当主を守ろうとしたのだ」
半ば馬車のキャビンに乗り込みかけていたエレーヌは、一度その扉から手を離して振り返った。
「意外ですわね。貴方レアルから来た弁護士ではなくて? この国の古いしきたり、その中でも……貴族の権勢などという、非合理的で不平等な物は、殊更大嫌いなのかと思っておりましたわ……まあ、よくある事ですのね。傍からは先進的に見える方ほど、爵位や歴史に意外と深い憧れをお持ちだったりしますものねぇ。ホホホ」
「そういう意味ではない、伯爵令嬢、エレーヌ殿……ともかく、貴女は気が済んだのなら帰るがいい。ここまで送って下さった事には礼を申し上げる」
「そうさせていただきますわ。負け犬のお城に御用はございませんの。サリエル、さっさといらっしゃい!」
村人や男爵について行かなかった家臣達は意気消沈しており、エレーヌの暴言を聞いても声を荒らげる者は居なかった。
エレーヌは馬車のキャビンの扉を開け、中に乗り込んで行く。サリエルも言いつけ通り後を追うが、どうにか扉を閉める前に振り向いて、その場の人々に深く頭を下げる。出来る事ならば、女主人の暴言が少しでも許されるように。
警官達は伯爵家の馬車が発車出来るよう、群衆を下がらせる。伯爵家の御者達は溜息をついて顔を見合わせ、帽子を取って村人達に会釈をして、馬車を発車させる。
馬車の中で。エレーヌはただ腕組みをして瞳を閉じていた。口を開くでも窓の外を見るでもなく。雑誌も手に取らず、ただじっと澄ましている。
サリエルは今起きた事に抗議しようと思っていたのだが。何故群衆にあんな悪態をついたのかと。サリエルは伯爵家や伯爵令嬢の評判を良くするのも自分の務めの一つと思っている。
しかし、サリエルは声を掛けられなかった。
今日のエレーヌは、隠しきれていなかった。
気難しそうに、微かに眉間に皺を寄せ、ただ瞳を閉じ口を結んでいるエレーヌ。
側仕えの長いサリエルだったが、サリエルにはエレーヌの気持ちが解らない事の方が多い。
それはサリエルがエレーヌの気持ちを読む技術よりも、エレーヌがサリエルに悟られぬよう気持ちを隠す技術の方がずっと上だからである。
エレーヌは他の誰よりも、サリエルに対しては上手に気持ちを隠して来た。たまにははしゃぎ過ぎたり感極まったりして隠せなくなる時もあるが、肝心な所では決して気持ちを悟られないようにして来た。
そんなエレーヌが今日はその気持ちを隠し切れず、サリエルに何かを悟らせてしまっていた。
馬車はスリテア村を離れ、街道をカトラスブルグの方へと戻って行く。
太陽は間もなく西の空に沈もうとしていた。
「お嬢様……警察の方やクロヴィスさんは乗せてあげなくて良かったのですか?」
「さあ。大人なんだから何とかするでしょう」
サリエルは当たり障りのない事を聞いてみた。
返事はすぐに、簡潔に帰って来た。しかしエレーヌは瞳を開かない。
「あの……私もバイヤール男爵は覚えておりましたの。五年前に伯爵屋敷の方に来られた時に、まだ小さいのに何故働いているのかと質問されました。私、その時は密かに、大きなお世話だと思いましたわ」
「……カトラスブルグの古い戦役の百周年式典でしたわね。父が主催して、近隣の名家の方々も集まって……うずら狩りはその後バイヤール卿の答礼のお招きで、バイヤール卿の領内の森で行われましたわ……恐らくあの時にはもう、バイヤール卿は父や私を館には招待出来なくなっていたのよ」
エレーヌは瞳を閉じたままそう言った。
「あの……お嬢様……バイヤール家はクロヴィスさんを殺そうとしたり、お嬢様にまで……いえ、変装なされていたのでそうとは知らずと思うのですけど、お嬢様にまで危害を加えようとなさいました。ですから、スリテア村の人々の前ではっきりそう申し上げるのはどうかとは思うのですが、彼等が没落した事にお嬢様が心を痛めるような事は、無いのではないかと……」
サリエルは思い切って、自分の心にあるままの事を言ってみた。
サリエルは予想する。エレーヌの返答を。
罵倒か、嘲笑か。うるさいと頭ごなしに叱られるだろうか。考えも無しに喋るなと笑われるだろうか。エレーヌの反応はどうなのか。
エレーヌは、瞳を開かなかった。そして。
「サリエル。悪いけどこればかりは貴女とでも分かち合う事は出来ないの。私は伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハート。この件に関して誰かと話し合う気は無いわ」
エレーヌはそれだけ言って。声を荒らげる事も、暴力を振るう事もなく、再び沈思黙考の海に沈んだ。
サリエルは密かに溜息をつく。何かが、お嬢様の心に影を落とし、締め付けている。だけどそれは側仕えのメイド、サリエルが聞かせて貰えるような事ではないらしい。
ならば自分の仕事は、それ以外の事でエレーヌを支える事だけだ。サリエルは心の中で、エレーヌへの忠誠と献身の誓いを新たにする。
警察は当初、バイヤール男爵とその家臣達の捜索に自信を持っていた。野営慣れもしていない人間が大勢で荷車まで引いて歩いていれば、見つけるのは簡単だろうと。五頭の馬と四台以上の馬車や台車を連れた二十人以上の集団が、人目につかない訳が無いと。
しかし男爵とその家臣……バイヤール騎士団が発見される事はついに無かった。
彼等は自分達が死ぬべきだった場所、中世の深い森の中に消えたのだと言う者も居た。




