弁護士クロヴィス・クラピソン 第二十六話
静まり返ったエレーヌのリビング。普段、日曜日はメイド達による清掃は入らない。サリエルは自主的に日曜日も清掃に来るが、今日はまだ来ていない。
部屋の主の姿も無いように見える。そこへ。納戸の扉が開き、帽子とかつらと付け髭を取り、ある程度近くで長時間見られてもバレないようにと施していた特殊なメイクを全て拭き落とし、部屋着に着替えた伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートが、ぼたりと、リビングの床に倒れ込んで来る。
エレーヌはそのまま床を這いずり、暖炉の前のソファまで辿り着くと、そこに這い上ってそのまま横たわる。
「うう……うううう……」
時々、低い唸り声を上げながら、エレーヌはソファに突っ伏したまま横たわり続ける。
―― パタン
その時。リビングの外の外の外あたりで、扉が開閉する音がした。
狼犬のようにそれを聞きつけたエレーヌはソファから跳ね起きると、リビングの出口に突進し、控えの間へ、ホールへ、入り口の間へ、そして廊下へと次々と扉を開けて突き進む。
そして、自らの区画の入り口の隣にある、サリエルの私室の扉の取っ手に手を掛けると、ノックも無しにいきなり開ける。
「きゃっ!?」
サリエルはそこに居た。彼女は今戻って来たばかりで、オーバン・オーブリーの扮装やメイクをしたまま、インバネスコートを脱ごうとしていた所だった。
エレーヌはそのサリエルに、半笑い半泣きで掴みかかる。
「待って! まだ脱がないでー!」
「お、お嬢様!?」
突然の興奮したエレーヌの襲撃に、サリエルは目を白黒させる。しかし、サリエルはサリエルで興奮状態にあった。エレーヌの奇襲によるパニックから徐々に立ち直ったサリエルは、頬を紅潮させ、逆にエレーヌに詰め寄る。
「お嬢様! 一体、何という危険な事をなさるのですか! 相手は本物の荒くれ男、使われた武器も本物です! 私、お嬢様に向けて銃を撃つ男を見て、心臓が止まるかと思いましたわ! 今回ばかりは我慢がなりません! お嬢様! 二度とあのような事はなさらないで下さい!!」
サリエルは本当に怒っていた。
エレーヌに対して声を荒らげてしまうのはこれが初めてではないが、今までの気持ちとは全然違う。今のサリエルは忠臣として、側仕えのサリエルとして本気で怒っているのだ。今回ばかりは、例えエレーヌがどんなに怒り狂おうと、引く訳には行かない。サリエルはそういう覚悟で、
「そうね。ごめんなさい。これからは気をつけるわ」
サリエルはそういう覚悟でエレーヌに諫言したつもりだったのだが、エレーヌはあっさりと頭を下げて来た。そして。
「だからあれ! あれもう一回言ってみて!」
エレーヌはそう言って、青灰色の狼犬のような瞳を爛々と見開き、サリエルの瞳を見つめる。
「お嬢様……お嬢様、それはいけません、やめましょう」
「御願い、早く! 今のうちに!」
エレーヌはサリエルの右手を両手で掴んでいた。サリエルが振り払おうとしても離れない。
「今のうちって、お嬢様、だめですわ、それは」
「解るでしょ! ね? 御願い!」
サリエルはおかしな方向に首をかしげ、左手でエレーヌの手をとんとんと叩く。エレーヌはサリエルから手を離す。
「では……はい」
サリエルはインバネスコートを整えると、斜めに構えて背筋を伸ばし、一筋の前髪を払いながら作り声で言った。
「恐らく違うだろう。バイヤール家の為に戦う事、主君の危機の時には全てを置いて駆けつける事、その誇りが彼等の最後の財産であり、心の拠り所なのだ。男はパンと肉だけで生きている訳ではないからな」
「きゃあああああああ!」
たちまち黄色い悲鳴を上げ、エレーヌはサリエルにすがりつく。サリエルは半笑いでエレーヌを振り払う。
「お嬢様ッ! サリエルですッ、これはサリエルですわッ!」
「違うわ貴方レアルの師範学校の教師オーバンよきゃあああオーバン!」
「やめて下さいお嬢様! これでは主従揃ってヘンタイですわ! お嬢様!」
「ヘンタイで結構よ!」
エレーヌはサリエルから離れて背中を向け、横顔だけを見せて、作り声で言う。
「そんな下らねえ拠り所抱えて犯罪者になるのの何が財産で誇りだよ。おまけにまともな銃は一丁だけ、あとは農家の納屋にあるような物ばかり、あれじゃ山賊以下だぜ、あんな有様で騎士団ごっことは片腹痛ぇ」
サリエルを挑発するように歯を剥いて笑うエレーヌ。サリエルも応じる。
「ナッシュ君! 君には解らんのだろうがそれは侮辱が過ぎる!」
「何だこの野郎文句あんのか」
「きゃあああああああ!」「ひいいいいいいい!」
今度はサリエルの方が黄色い悲鳴を上げエレーヌに抱き着く。エレーヌも喜んで興奮した狼犬のようにじゃれ返す。
「お嬢様! 一体これは何ですの!? 私達何に興奮してますの!?」
「わかりませんわ! きっと男の美学とかそういうものではなくて!?」
次の瞬間。サリエルの耳に天使が囁く。サリエルは慌ててエレーヌを突き放そうとする。
「い……いけません。いけませんお嬢様! こんな遊びは駄目です、色々な意味でお嬢様の身の破滅を招きますわ! 命の危険もございますし、社会的な命の危険もございます! 伯爵令嬢が男装コントにハマっているなどと世間に知れたら! 一体どのような噂をされるか見当もつきませんわ!」
「コントとは失礼ね! あのクロヴィスって男は私がナッシュになって助けていなかったら今頃重しをつけてエイル河に沈められていたかもしれませんわ! だいたいあの男! 貴女の弁護士だって言うから助けたんじゃない!」
エレーヌは真顔でそう言ってしまってから、しまった、という風に困惑し、顔を背ける。エレーヌは普段こういう事を口に出すのが苦手だったのだが、今は少し箍が緩んでいた。
「……お嬢様?」
「アンタ、あの男はどうなのよ。間違いなく美男子だし男気もあるのではなくて? 普段……アンタにくだらない恋文を送って寄越す男達とは違うのでしょう」
エレーヌがこんな所からこんな風に打ち込んで来るとは思ってもいなかったサリエルは狼狽し、ますます顔を赤らめる。サリエルは別にクロヴィスの事をそこまで意識していた訳ではないし、今も別段異性として強く意識している訳ではない。ただ、確かに芯の通った男気のある美男子だとは思う。
サリエルは、努めて冷静に答える。
「お嬢様、私の頭の中には確かに一年中花が咲いているような所もございますが、私別に美男子と見れば年中発熱している訳ではございませんわ」
「あら……それは余裕かしら? 貴女はいつでも殿方に懸想されますものね……」
エレーヌもようやく興奮が冷めて来たのか。その口元から、いつも通りの嫌味な物言いが漏れる。その言葉は思わぬ程にサリエルの悪戯心を刺激した。
「まあ、それは……伯爵令嬢の側仕え、メイドのサリエルの話ですわ……オーバンがクロヴィスをどう思うかというのは、また別腹かもしれませんわね……」
たちまち魔法がかかる。エレーヌは再び冷静さを失い半泣き半笑いで興奮しきっておかしくなった狼犬のようにサリエルに激しくじゃれつく。
「オーバン! 貴方やっぱりオーバンだわクロヴィスと固い友情の握手をしたオーバンよ!」
「お嬢様! 違います私はメイドのサリエルですわ! お嬢様!」
「おだまり! 御願いオーバンだと言って! 貴方はレアルの師範学校で教鞭を執るオーバン・オーブリーよ!」
「お嬢様! ビールはとても苦うございましたわ、私ビールは初めてでしたの、けれど、けれどビールとは、一仕事やり遂げてお互いを認め合う、男同士のビールという物は何故あんなに甘美ですの!? いいえ違いますお嬢様、私達きっとビールで悪酔いしてるんですわ!」
サリエルも半泣き半笑いでのたうちまわる。二人はもつれあって床に転げ、また掴みあって転げ回る。
エレーヌは普段着の懐にあの大きな帽子をねじこんでいたが、それを取り出してサリエルに見せる。
「見てこの帽子! こんなところに穴が開いてしまいましたわ!」
エレーヌの豊かな金髪を隠す為に被っているナッシュの大き過ぎるキャスケット帽の上の方に、銃弾による穴が二つ開いていた。一発で貫通したものらしい。
「きゃあああ!? お嬢様なんて事を!?」
「死ぬかと思いましたの! 私、今日は本当に死ぬかと思いましたのよ!」
「お嬢様!! やっぱりいけません!! こんな事はもう絶対に……」
「まあ、先日屋敷じゅうの皆に追い回された時の恐ろしさは、こんな物ではありませんでしたけど」
「あ……」
少し冷静さを取り戻したエレーヌは立ち上がり、サリエルにも手を貸す。サリエルも今日は遠慮なく、エレーヌの手を借りて立ち上がる。
今の二人は、全く普段の二人ではなかった。いつもの厳然たる主従関係でもない。今朝までの喧嘩をしている二人の緊張感も無い。
「ありがとうサリエル、一緒に来てくれて」
エレーヌは五歳のエレーヌに戻ったかのように、素直にそう言葉に出していた。
「だけど、こんな危険な事はもういけませんわ」
サリエルも六歳のサリエルに戻ったかのように、優しく微笑む。
二人の手が自然に、御互いに向かって伸びる。
サリエルが呟く。
「お嬢様……」
エレーヌはサリエルの手を避け、回り込んでサリエルの肩に飛びつく。
「用があればまた! 用があればまたって!」
「お嬢様!? おやめ下さいお嬢様、悪酔いが過ぎますわお嬢様!」
エレーヌもサリエルも普段からワインは嗜んでいる。ワインは嗜んでいるが、ビールなど飲む事は無い。アルコール度数の問題ではない。慣れない安酒というのは酔いが回り易いのだ。
サリエルはインバネスコートから袖を抜いて、コートごとエレーヌをベッドに投げつける。エレーヌはサリエルのベッドの上に転がる。
「おしまいです、オーバンはおしまいですお嬢様!」
「やめなさい! いえ脱ぐのをやめなさいオーバンはやめないで、ちょっと! 命令よ、待って!!」
サリエルはきっちりとセットされた黒髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。エレーヌはベッドから跳ね起きサリエルに手を伸ばすが、サリエルが笑いながら部屋を飛び出して行く方が先になった。
「待ちなさい! 待ってぇぇオーバン!」
「お嬢様! 私はサリエルです、サリエルですわー!」
拗らせた二人の娘が、笑いながら部屋を飛び出し行った後。サリエルの部屋はしばらく静かになっていたが。
―― コト……
やがて部屋の隅の天井板が……それは良く見れば最初から少しズレていたのだか、大きくズレて……そこから縄梯子が降って来る。
そしてその縄梯子を伝って降りて来たのは屋敷の最年少メイド、ポーラだった。ポーラは日曜日にも関わらずメイドのお仕着せを着て、背中に背負い袋を背負っていた。
ポーラはぼんやりとしていた。サリエルの部屋に降りても。辺りを見回しながら……信じられない物を見たという風に、目を見開いて。
ポーラは思う。自分の頑張りは何だったのだろうか。
ポーラの背負った袋の中には街で買って来たドーナツが入っている。彼女の貴重なお小遣いで買って来た物だ。ポーラは何とかしてこれをあの二人に食べさせようと、ずっと年上のお姉さま方だけど、甘い物の力ならきっと何とかしてくれると、美味しいドーナツを二人で食べたらきっと素直に仲直り出来ると、そう思って、一生懸命考えていたのだ。
そこにあの、見た事も無いような二人の痴態である。
ポーラは深い溜息をつく。このドーナツをどうしよう。一人で食べるには多過ぎるが、学校の友達と食べるには少ない。エレーヌやサリエルと違い、彼女にはたくさんの友達が居るのだ。




