弁護士クロヴィス・クラピソン 第十二話
ホテルを出たサリエルは一度振り返り、ロビーにある大きな時計を見る。
この時計も数字の書かれた板を回転させて表示する機械式デジタル時計だった。今の時刻は十四時十二分。市役所は土曜日は十五時までだが、間に合うだろうか。
サリエルは足早にその場を離れて行く。
数分後には弁護士クラピソンも現れる。コートを着て帽子を被り、鞄を持っている。こちらは車寄せに向かうが、手配したはずの辻馬車が来ていない事に気付くともう一度ホテルのフロントに戻って行く。
ここはカトラスブルグで一番モダンだと謳うホテルではあるが、全てのサービスが額面通りに提供出来ている訳でもないらしい。
それから八分程経って、二輪で有蓋の辻馬車はやって来た。クラピソンは再び外に出て辻馬車に乗り込み、去って行く。
その少し後を乗合の大きな駅馬車が通る。二頭引きで十人ばかりの乗客を乗せている。少しお金に余裕のある市民の足だ。
その後ろを、消防署の蒸気自動車が通り過ぎる。小火の為に出動した後で、急いではいない。四人の消防士を乗せた、これも大型の自動車だ。
その次に通ったのは、並列二人乗りのコンパクトな最新型の蒸気自動車だった。
左の席にも右の席にもハンドルとブレーキがついていてどちらでも操縦出来る。そして両方の席にペダルがついており、緊急時には自転車のように漕いで進む事も出来るようだ。なるべく軽量化したかったのか、屋根は幌を含めてついていない。
これには伯爵屋敷の庭師見習いのトマと、黒髪にもみあげから顎まで繋がった黒髭、それに大きな帽子の男ナッシュが乗っていた。
変装をしているのはエレーヌだけではない。トマもスローチハットを被り、ハンドルバー型の付け髭をつけさせられている。スローチハットは伯爵令嬢が列車強盗に使った物で、ハンドルバー髭はサリエルが自分の男装写真と一緒にゴミに出した物を、エレーヌがこっそりとっておいた物だった。
そして二人とも自動車競走に使うようなゴーグルをつけている。
「ナッシュ君。サリエル嬢は市役所へ行くのだと思うよ、時計を確認したのは窓口がまだ開いているか知りたかったんじゃないかな」
トマは何かを棒読みにしたかのような口調でナッシュに言った。
「遺産を受け取る事にしたのかな。まあいいや、あの弁護士の方を追ってみよう」
「あまり気が進まないな。新車には不具合が付き物だと聞くね」
「その為のペダルじゃねえか。頼りにしてるぜ」
ナッシュは足元の一メートル程の給水レバーをガチャガチャと何度も引く。
「ボイラーもまだどんな不具合が出るか解らないから。そんなに圧力を上げない方がいい」
「こいつの最高時速は三十キロメートルだぞ、このくらいでへばられちゃ困る」
クラピソンが乗った辻馬車は凹凸の多い郊外の道も走りやすいよう、調整されたスプリングとゴムタイヤがついた、古いが洗練された物だった。
一方、ナッシュ達が乗った新型蒸気自動車には問題があった。ちょっとした地面の凹凸を全部拾ってしまうのだ。
「ナナナッシュ君これはおおかしいんじゃないいか一度止めてみたた方が」
「大大丈夫、こいつにには最新新式の水圧ササスペンションが搭載されれていて」
激しく振動する座席で舌を噛みそうになりながら二人は言いあっていたが。
「ナシュナッシュ君、君は自分を庭庭庭師見習いのナッシュ君として扱扱扱えと言っていたな」
「いちいちいち聞き直す必要ははないぜ、何何だ?」
「このこの車はおかしいと思うから、私はブレーキをかけようと思思う」
トマはそう予告してからブレーキハンドルを引く。前輪の鍛鉄の車輪から火花が散る。
「解った解った、こっちを止めないと止まらないから」
ナッシュは圧力弁を操作し蒸気圧を下げ、減速させてからギアを中立に戻す。トマは自動車が完全に止まる前に飛び降りて、サスペンションを見に行く。
「ナッシュ君。水なんか入っていないぞこれは」
「何だって!?」
「パッキンの強度が弱過ぎたんじゃないかな……全部漏れたんだきっと」
「それでこんなガタガタいうのか、ポンコツめ」
「新しい機械はこんなものだ、問題はいつも起きる」
「とにかく栓を開けて水を注ぎ足そう」
「そもそもこのサスペンション、水を使う事に無理があるんじゃないか……何故素直にスプリングを使わないのか」
「それがリノバッションなのさ、意味は知らないが自動車屋がそう言ってた」
「個人的には、その自動車屋の尻にもこのガタガタ椅子を押し付けてやりたいね」
トマはそう言いながら、金槌で水漏れ箇所をガンガン叩いて歪ませる。
「これで暫く漏らないとは思うけど、長くはもたないぞ」
「あの弁護士、どこまで行くんだろうな」
二人がそんな事を言いながら再発進の準備をしていると。向かいから一台の二輪馬車がやって来る。それは往診の帰りの医師、マティアス・マナドゥの馬車だった。
マナドゥの方も既に二人を見つけていた。そして虹彩認識能力でそれがいつかと同じ変装をしているエレーヌと、伯爵屋敷の門前でよく見掛け挨拶をし、最近友人になりかけている仲の庭師のトマである事を見抜いていた。
「やあトマ。面白い物をいじってるね……何かトラブルかい」
「マティアス……見ろナッシュ君、この変装はまるで意味が無いみたいだぞ」
変装しているトマが変装しているエレーヌにそういうのを見て、マナドゥは自分が今失敗をした事に気付き、修正を試みる。
「そっちはいつかのナッシュ君だな、貴方、もうエレーヌさんの悪口は言ってないでしょうね?」
ナッシュは一時、思考停止していたが。
「ああ、その節は失礼しましたね! 先生は往診の御帰りですか!」
変装がばれていないと思い、作り声で答えるエレーヌ。トマは心中頭を抱え、マナドゥは真顔で笑いを堪える。
「ええ。そちらは蒸気自動車の慣らし運転ですか? そういえば、今そこで例の弁護士さんとすれ違いましたが」
ナッシュとトマは顔を見合わせる。
「先生がクラピソンさんを御存知で?」
サリエルはエレーヌに、交通事故に遭った少年をフーリエの診療所に連れて行った事は話したが、そこに居た医師がフーリエではなくマナドゥだった事は話して居なかった。事故の相手がバイヤール家である事も、そしてクラピソンがバイヤール家を訴えると息巻いていた事も。
「ええ。あの人ですよ、先日サリエルさんと一緒に交通事故を目撃して、怪我人をフーリエ先生の診療所に連れて来て下さったのは。その時、フーリエ先生は留守でしたので私が対応しました」
「ちょっと待って下さい! 俺はそんな話……ああ、いや、知らなくて当然でした。へえー、そうなんですかい。ちなみになんですけど、先生は事故の話もう少し詳しく御存知じゃないですかね? ああ、あの、あくまで世間話として」
マナドゥはナッシュの反応でだいたいの事情を察した。マナドゥは一旦、自分の馬車を右側の路肩に寄せ、後ろで待っていてくれた近在の農家の馬車を先に行かせ、馬車を降りてナッシュとトマに近づく。
「少年を撥ねたのはバイヤール家の馬車だそうです。クラピソンさんは出来れば示談で済ませるとは言ってましたが……彼が患者から聞き出していた事故の様子だと、相手はまるで反省していないように思います」
「そりゃ酷い……おっと! それじゃあれかい、サリエルとかいうその、伯爵屋敷のメイド! あれもその、クラピソンと一緒になって、バイヤール家を訴えるつもりなんだな?」
それぞれ路肩に避けているナッシュ達の蒸気自動車とマナドゥの二輪馬車の間を、麦藁を満載した大型の蒸気自動車が通過して行く。
「いいえ。サリエルさんにそんな様子はありませんでしたよ。クラピソンさんも患者の調書や所見の医師である私の調書は取りましたが、サリエルさんの目撃調書は取っていませんでしたね」
マナドゥはそこで一旦言葉を切り、ナッシュの反応を見て続ける。
「ただ、少年……マルコ・シメオンは今も入院しているのですが、大変気になる事を言っています。馬車に撥ねられた後、馭者達は激昂して彼をさらに鞭で打とうとしたと。その時に体を張って助けてくれたのがサリエルさんで、馭者を力ずくで捻じ伏せたのがクラピソンさんだと」
「おいおい……そりゃあちょっと大事じゃないか」
ナッシュは片手で、帽子の上から頭を抱える。
「じゃああれか? クラピソンさんは今からバイヤール家に請求書を突き付けに行くのか」
ここはカトラスブルグの市域を少し出た、郊外に続く道だった。エイル河とは反対側だ。そしてバイヤール家の荘園は確かにこの道の先にある。
「あの人は……ああ、噂に聞く所によるとだな、レアルの弁護士らしいぜ。見た目はしっかりしてるようだけど……まだ若いし、田舎の怖さを知らねえんじゃねえかなあ。バイヤール家かあ。伯爵令嬢に負けず劣らずの高慢ちきだ、ありゃ」
「貴方はまだそんな事を! まるで反省してないじゃないですか!」
ナッシュのエレーヌを侮辱するような物言いに、マナドゥはただちに激昂してみせる。笑いを堪えながら。
「あっ、とっ……す、すみません、これで失礼致しますマナドゥ先生、さあトマ、その、蒸気自動車の慣らし運転を続けようじゃねえか」
ナッシュは蒸気自動車の左側の座席に飛び乗る。
トマは、マナドゥがナッシュ=エレーヌであると解っていると気づいていた。そして苦笑いするような視線をマナドゥに向ける。
「フライフィッシング、明日あたりどうかと思ってたんだけどね……難しいや」
「ああ、明日だと都合が良かったな……先週例の場所でフーリエ先生が七十センチメートル超えのトラウトを釣り上げてね」
そんな話をしながら、トマは蒸気自動車の右側の座席に乗り込み、マナドゥは自分の馬車の座席に戻って行く。
「とにかく、クラピソンを追い掛けてみよう」
ナッシュが言った。




