弁護士クロヴィス・クラピソン 第十話
「あのお嬢様、この話、別段隠していた訳ではないのです、ただお嬢様に報告するタイミングが無かっただけで、それにその、私事ですので、第一あの! 私の祖父に資産なんてございませんわ! 私の父だって、祖父から貰った物など何も持っておりませんでしたもの」
エレーヌの方はサリエルが何かしら助けを求めて来るようならば、仲直りのいい切っ掛けになると考えていたのだが、サリエルはエレーヌの助けは要らないと言う。
「……水曜日くらいでしたかしら」
エレーヌが。窓の外を見つめたまま呟いた。
「貴女宛に手紙が二通届いてましたわね……あれはその遺産相続の件と関係がありましたの?」
サリエルはうっかり、普通に返事をしてしまう。
「いえ、あの手紙はただの……」
馬車が角を曲がりだす。
「ただの?」
「ただのコマーシャル手紙でございます」
「ただのコマーシャル手紙ねえ……最近私の所に来ていたピアノ買取業者の手紙が、来なくなったのよね……誰かが勝手に捨ててるのかしら……」
「お嬢様、ですがあれはお嬢様もうんざりされていて、そもそももう屋敷にはピアノがございませんし」
「それでも、私に手紙を下さる方などピアノ買取業者の方くらいしか居りませんのよ……それで貴女は? どんな業者からコマーシャル手紙をいただきますの?」
サリエルは返事に詰まる。サリエルにはコマーシャル手紙など来ない。あれは資産や財物を持っている人間に届くのだ。
エレーヌは頬杖をつき、顔を完全に窓の方に向ける。
「また……殿方から恋文を頂いたのね?」
穏やかだが聞く者の背筋に寒気を走らせる、エレーヌの声。
「また! とおっしゃいましても、その、私が望んだ事ではないのです、向こうが勝手に送って来る……」
サリエルはまたしてもまともに返事をしてしまった。エレーヌは顔を向こうに向けたまま、低い猫なで声で続けた。
「大変ですわね……どうしたらそんなに殿方から懸想されるようになるのかしら。ピアノの買取業者からしか恋文をいただけない貧相な伯爵令嬢には、永遠に解りそうに無いわね……」
これはエレーヌの言い過ぎであった。この件でサリエルがどれだけ心労し、疲弊して来たか。余りの一言に、サリエルの感情は一時に爆発する。
お嬢様! それはあんまりですわ!
そんな事をおっしゃるのなら、何故私を屋敷から追放して下さらないのですか!? どうして死ねとおっしゃって下さらないのですか!?
確かにリシャールさんからの手紙をお渡ししなかったのは私ですわ! 一体何度申し上げたら宜しいのですか!
あのリシャールさんからの手紙は、私が渡さなかったから無かった事になっているのですか!? 大尉は確かに手紙を書かれたのです! どうしてお返事すら差し上げようとしないのですか!?
大尉があまりお好きではないのですか? そんなの嘘ですわ、先月のお嬢様はとても幸せそうでした、私めが手紙をお渡しするのを忘れていた事を思い出すまでは! さあ早く私を殺して下さい!
それとも本当にあのグレードの男性がまたすぐ捕まるとお考えなのですか? そうかもしれませんわね。そうでしょう! マナドゥ先生と何をお話ししてらっしゃったんですか!? それは側仕えの私にも秘密なのですか!? 今度こそ大尉の時のように私に邪魔されないように警戒してらっしゃるのですか!?
どうしたら……どうしたらそんなに懸想されるようになるのかしら? その言葉そっくりそのままお返し致しますわ! どうしてお嬢様ばかり、誠実で男気のある美男子に懸想されるのですか……!
あのアンドレイだって、お嬢様御自身に対しては十分誠実で男気がありましたわ! その上美男子で有能な陸軍参謀で爵位持ち、何がいけないと仰るんですか!
弁護士のクラピソンさん……あの方もかなりの美男子でしたわ……少々気難しい所もありそうでしたけど、毅然とした殿方らしい殿方でしたわ。あの方とも……私が知らないうちに面識を持たれてましたのね。どうせ、どうせあの方も、お嬢様の方と仲良くなられるのよ……
そして私に頼んでもいない手紙を寄越すのは助平老人や自称遊び人ばかり……何故ですの……何故ですの……
しかしサリエルの感情の爆発は、決して表面には出て来なかった。
「お嬢様、今日は化学で模範解答を求められる可能性がありますわ。ノートは確認していただけましたでしょうか?」
サリエルは、真顔でそう言った。
エレーヌは顔を窓の外に向けたままだった。
伯爵家の馬車が教会通りを進む。登校時間であるので、その辺りには徒歩で登校する聖ヴァランティーヌ学院の女生徒が居た。
そのうちの一人がふと、馬車の窓から外を見ていたエレーヌの顔を見てしまい、「ヒッ……」と、小さな悲鳴を上げて走り去る。
「化学は……問題ありませんわ」
エレーヌが答えたのは、サリエルの問い掛けから暫く経ってからだった。
やがて馬車は教会通りから曲がり、聖ヴァランティーヌ学院の入り口へ続く坂道を登って行く。
◇◇◇◇◇
その日の午後早く。伯爵家の馬車は聖ヴァランティーヌ学院から戻って来た。馬車は学院に置いておく事は出来ないので、いつも登校時と下校時にそれぞれ屋敷との間を往復している。
今日は馬車は伯爵屋敷の正門をそのまま通り過ぎ、ロータリーに止まった。今日のトマの当番はエレーヌが戻るまでとなっており、その後は非番となっている。
そういう意味で、トマはエレーヌ達が戻るのを心待ちにしていた。
しかし、馬車から降りて来たのは自分で鞄を持ったエレーヌだけで、サリエルの姿はなかった。昨日と違うのは、エレーヌの様子がいつも通りになっているという事だ。昨日のような変わり果てた姿ではない。
さて、その馬車から降りたエレーヌが、屋敷の玄関の方ではなく……自分の方へとやって来る。
女主人をここまで歩かせるのも良くないと思ったトマは、正門からロータリーの方へ小走りに駆けて行く。
「貴方にちょっと御願いがございますの」
駆け寄ったトマにエレーヌは前置きもなくそう言った。トマの土曜の午後の休暇が消えた。
「ええ、何なりと」
◇◇◇◇◇
サリエルは一人で街の中心部の大聖堂の近くを、学院の制服のまま歩いていた。
エレーヌとの諍いは、完全な喧嘩へと移行してしまった。
反省も後悔もしている。自分は酷く感情的になってしまった。自分の心が持つ闇を、醜さを、抑えきれなかった。
学校に居る間も、帰りの馬車でも。表面上の二人はいつも通りだった。いや、いつも以上に平和だった。今日のお嬢様は何事も控え目で静かだった。
だけどサリエルには解っていた。自分のポーカーフェイスなどお嬢様には通用していないだろう。お嬢様はとても賢いのだ。
自分が感情的になっている事、それを無理に抑えている事、その事はお嬢様に伝わってしまっている。
だから今日のお嬢様は、自分を使い走りにも使わなかった。
お昼には一緒にサンドイッチを食べたし、ブルーベリーサンドも譲ってくれたが、それはいつもの事だ。食事中、会話が無い事も。
自分の忠誠心が揺らいだ事は全く無いつもりである。むしろお嬢様の為なら今命を捨てても惜しくはない。
だけど、そんな敬愛する女主人に対し、感情をむき出しにしてしまった自分と、それに気づいている女主人の関係は、これからどうなってしまうのだろう。
サリエルは重くどんよりと曇った心を抱えたまま、一軒の建物の前に辿り着いた。
建物の前面の壁の殆どが格子状に張り巡らされたガラス製で、中でたくさんの人々がデスクに向かっていたり、ラウンジで寛いでいたりするのが丸見えになっている。これがモダンなのだろうか。
ここは専らビジネス客が利用する為のホテルらしい。上に客室があり、地上階では事務支援サービスが受けられるようだ。
弁護士のクロヴィス・クラピソンは、ここに滞在しているという。




