弁護士クロヴィス・クラピソン 第六話
辻馬車の座席には怪我をした少年だけが乗っていた。クラピソンとサリエルは徒歩でその馬車を追う。
「貴女は何故、あの少年を助けようと思ったのですか」
「私もあの瞬間、考え事をしてぼんやりしておりました。馬車の前にうっかり飛び出して怒られていたのは、私だったかもしれませんの」
「そんな考え方はありません。馬車がスピードを出し過ぎていたのが悪い」
「ですが……街路樹の陰から突然飛び出して来られたら、どんな馬車でも止まれませんわ」
クラピソンはかぶりを振る。
「その程度の理由で、見知らぬ他人の代わりに鞭で打たれようというのは無い」
「そうですわね……でもあの御者の方々がお持ちでしたのはゴムの鞭でしたし」
サリエルは密かに笑いを堪える。エレーヌが振り回す乗馬用の鞭に比べればあんなのはどうという事はない。
しかしそれを聞いたクラピソンは馬車を追う足を止めて振り返る。
「我慢出来るから、我慢すると? 貴女は心身共に健康で丈夫、あの鞭で叩かれた程度では何とも思わないのかもしれません。しかし貴女がそんな事を我慢すれば、相手はそうするのが当然だと思うようになる。そうして傲慢になった男がどこかで、貴女のように心身が丈夫でない人間を鞭で打つかもしれない、そうは考えられませんか。理不尽な思いをしてまで、人を救うのはおやめなさい」
サリエルはいくつもの事を考えさせられた。
まずは自分の愚かな娘としての部分。このクラピソンという男はなかなかの美男子だし心持ちも強く親切だ。
だけど少し他人にも自分にも厳しい所がありそうだ。こういう男は自分向きではないかもしれない……サリエルは自分を恥じつつもそんな事を考えてしまった。
もう一つは、より真面目な部分。クラピソンが言った事は正に自分とお嬢様の関係なのかもしれない。
お嬢様は時々、誰もが眉を顰めるような苛烈な仕打ちをするような事がある。聞こえよがしに他人の悪口を言う事もある。人目のある場所で自分に暴力を振るう事もある……サリエルは自分が打たれるのは構わなかったが、エレーヌが自分を打つ姿を他人に見られるのは口惜しい。
お嬢様がそうなってしまったのは、自分のせいなのか? サリエルは時々、そう思い悩んでいた。
そして、先程の騒ぎの事。これはクラピソンの言う事が正しいのだとは思うが、サリエルにはサリエルの感情と、物事に対する行動規範があった。
「クロヴィスさん。貴方の仰る事は正しいと解りますし、助けて下さった事には勿論感謝しております。ですが私、この先どこかで同じ事が起きても同じように振る舞いますわ。私、本当に人より丈夫ですの。それにその時にも貴方のような正義感を持った立派な方が近くにいらっしゃるかどうか解りませんもの」
クラピソンは少し驚いたような顔をしてから、軽くため息をつき、再び馬車を追いかける。サリエルも後ろからついて行く。怪我人を乗せた馬車は非常にゆっくり進んでいたので、すぐに追いつく事が出来た。
「貴女のような人には、会ったことがない」
クラピソンは半分感心したような、半分呆れたような口調で言った。
「貴女の事を伺っても?」
「はい。サリエル・サルヴェールと申しますわ」
「学生のようですが……」
「市内の聖ヴァランティーヌ学院で学んでおります」
聖ヴァランティーヌ学院は市内のみならず、国内でも有数の名門女子校と言える。また、この国の女子教育は世界の中では最先端の域にあると思われている。
この国では望めば女子でも物理や化学、生物学などの高等教育を受けられるし、卒業後も男性に混じって働く事も出来る……と言われている。
ただし。聖ヴァランティーヌ学院で学ぶ為には、多額の入学金と授業料、推薦状を得る為の寄付金が必要である。
「それは……私でも名前を存じ上げている名門校です。更に驚きました。貴女はそんな名門校に通えるような良家の子女でありながら、教養の無い野蛮な労働者に鞭で打たれるのが怖く無いのですか」
サリエルは苦笑いを浮かべる。時々、こういう勘違いをされる。自分は名門校に通ってはいるが、良家の子女ではない。
そもそもサリエル・サルヴェールには、家そのものが無い。早くに亡くした両親にはあまり親戚も居らず、サリエルは完全に天涯孤独の身である。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「良家の子女だなんてそんな。私はストーンハート伯爵にお仕えする侍女ですの。伯爵様の御厚意で、エレーヌお嬢様と同じ学校に通わせて頂いて……」
サリエルはそこまで口に出して、エレーヌと喧嘩している事を思い出す。全く。自分はオーギュスト伯爵から期待され、エレーヌの側に仕える為にこの制服を着せて頂いているのに、何をしているのかと。
しかし次の瞬間。クラピソンから全く予想していなかった反応が返って来た。。
「私が探していたのは貴女か!」
クラピソンは再び足を止めて振り返り、真剣な眼差しでサリエルを見つめた。
「は……はい?」
「サリエル・サルヴェールはオーギュスト・ストーンハート伯爵の屋敷で働いていたのですね!? それが貴女だと! やはりそうだった!」
無駄に、つまらない男から言い寄られる事の多いサリエルは、そんな男が運命を演出しようとする事に慣れてはいたが。クラピソンはそういう種類の人間ではないという事、今起きているのは何か、本物の運命的な出来事だという事……サリエルはそれを直感した。
「貴女の父親の名はセザール。母親の名はマエリス。相違はありませんか!」
「は……はい……あの、恐れ入りますが、貴方は一体……?」
「マンフレートという名前に心当たりは!」
「い、いえ……そういう名前は」
「両親の血縁、親類、そういう所まで記憶を広げて下さい! 必ずあるはずだ」
「あの、祖父はその、でもミドルネームですのよ、それに私祖父には会った事がありませんの」
「貴女の祖父の名前がイヴァン・マンフレート・サルヴェール、父がセザール・マンフレート・サルヴェール。そうでしょう!?」
クラピソンはサリエルの両手を取る勢いで迫る。つまりは取ってはいないのだが。サリエルはただ圧倒されていた。正直な所、彼女は両親や自分の家についてはほとんど何も覚えていないのだ。少なくとも表層意識では。
高い山が見下ろす静かな町に、小さな庭のある小さな家があった。
小さい頃の自分は、そこで両親と共に暮らしていた。
両親と暮らした日々の事は、楽しく美しい事しか覚えていない。
ある朝、近所のおばさんが馬車でピクニックに連れて行ってあげるというので、サリエルは喜んで馬車に乗り込んだ。おばさんの家の子供や他の友達、近所のお姉さんや、自分より小さな子も一緒に乗っていた。
馬車の中は楽しかった。ついた先は森の中にある隠れ家のような小屋で、地下室や仕掛け扉などもあって楽しかった。
自分と同じ年頃の子供達は皆楽しそうだったけど、おばさんは楽しそうではなかった。お姉さんはずっと泣いていた。そこに二晩泊った。
町に戻ると兵隊がたくさん居た。自分の家も含めた何件かの家が火事で無くなっていた。サリエルは自分の家ではなく教会に行って眠った。
その後、両親と会える事はもう無くて、サリエルはストーンハート伯爵の屋敷に連れて来られた。
サリエルが生まれた家と比べたら、とても大きな庭のある、とても大きな家だった。
それから何年か後、文字や歴史の勉強をするようになったサリエルは、自分と両親の身に降りかかった災難の正体は戦争であり、自分は戦災孤児なのだという事を知った。
ごく一瞬の。短い記憶の旅から戻ったサリエルは、まず、行く手を指差した。
「あの、馬車がフーリエ先生の診療所に着きましたわ、早くあの子を先生に診せませんと」
クラピソンは小さくかぶりを振る。
「そうですね。あの少年の診察が先決です。それから話をさせて下さい。私はイヴァン・マンフレート・サルヴェール氏の遺産を、セザール・マンフレート・サルヴェール氏の正統な権利後継者に相続させないといけない。サリエル・サルヴェールさん。貴女が間違いなくその人ならば」




